見出し画像

「名言との対話」8月2日。柴田承桂「医薬分業」

柴田 承桂(しばた しょうけい、嘉永3年5月12日 (旧暦)1850年6月21日)- 明治43年(1910年8月2日)は、日本化学者薬学者

愛知県名古屋市出身。尾張藩医の養子となるが、体が弱く医者を断念し化学者、薬学者の道に進む。1871年文部省による第1回ドイツ留学生を命じられ、有機化学と薬学、衛生学を学ぶ。1874年に帰国し、長与専斎文部省衛生局長の意向で東京医学校(後の東大医学部)の初代製薬学科教授に就任。25歳であった。「百科全書」の翻訳事業に参加。文部省衛生局司薬監督、東京薬場長、大阪薬場長を歴任。日本薬局方、改正日本薬局方の編纂に携わるなど、日本の薬学発展に多大な貢献をした。

1878年に9人が卒業するが、医科と薬科の処遇の差に憤慨し、下山順一郎ら3人を後継者と推薦し、退官する。以下、その経緯。

柴田は「薬律」の制定にあたり、1874年に制定された「医制」は医師は自ら薬をひさぐことを禁じるとあり、この「医薬分業」と調剤は薬剤師の権限であると強く主張したが、最後に「当分の間」という文言を附則にいれることで妥協しようとした。ところが闇討ち的に削除されてしまった。医薬兼業という日本独特の慣行が温存されることとなった。このことに憤慨した柴田は40歳の若さで退官したのである。因みに「薬剤師」という名称はこの薬律で決まったのだが、ドイツ語の翻訳は柴田の手になったものである。

1881年に薬学会が結成され、初代会頭に推薦されたが固辞。ともにドイツ留学した長井長義(日本薬学の父)を会頭、下山順一郎を副会頭に推薦し、自身は幹事となった。

柴田承桂は大立者の長与専斎の慰留を振り切って、潔く教授の地位を捨てている。そしてこの薬学会のトップになることも拒否し、同僚や弟子たちを引き上げている。地位や名誉よりも、「薬学」に発展のため尽くすことに専心したのだろう。

悲願であった医薬分業が定着するのは、実に100年以上後の平成の初頭である。

柴田承桂の長男の柴田桂太は日本初の植物生理学・生化学の講座を開いた東京帝大教授であり、日本の植生理学・生化学の水準を一気に高めている。次男の柴田雄次は化学の道に進み、東京帝大教授、名古屋帝大理学部長、東京都立大学初代総長。

そして柴田桂太の長男が、東京大学教授で薬学界で目覚ましい活躍をみせた柴田承二だ。日本薬史学会の中に、柴田承二の名を冠した柴田フォーラムが今も存在している。

昨日書いた箕作阮甫の場合、「洋学の家」とされた宇田川玄真の一族もそうだが、学者の世界でも「家」の存在を感じる。「家」は近現代においては、批判の対象となったが、一方で近代化の推進力となったという面もある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?