見出し画像

「名言との対話」11月8日。大森房吉「次の起こるべき大地震はここですよ」

大森 房吉(おおもり ふさきち1868年10月30日明治元年9月15日) - 1923年大正12年)11月8日)は、日本地震学者地球科学者。

上山明博関東大震災を予知した二人の男』(産経新聞出版)を読んだ。関東大震災を予知できなかった男と予知した男と記録された二人の地震学者の信念に光を当てた優れたノンフィクションだ。2011年の東日本大震災の2年後、関東大震災から90年にあたる年に上梓した作品である。

今村明恒は1905年に、今後50年以内に東京での大地震が発生すること、その場合には圧死者3000人、火災が発生すると死者10万人以上と警告し、震災対策をせまる記事を雑誌『太陽』に寄稿した。今村の上司の大森房吉教授は、関東大震災が起こるとすれば、相模湾震源と予知していたが、世間が動揺することを恐れ、これを浮説として否定したため、今村は「ほら吹き」と批判される。大森はノーベル賞がほぼ内定していた学者で、「地震学の父」と呼ばれていた。一方の今村は二つ年下で、無給の助教授に甘んじていた。

大森がシドニーに滞在していた時、東京で大地震が発生する。「来た! つに来た!」と今村は快哉する。安政の大地震以来68年ぶりの大地震だ。5万2千人余が焼死した。本所横綱町の被服廠跡では、火災旋風で3万8千人が焼死している。帝大教授の寺田寅彦が「天災は忘れたころにやってくる」という名言を吐いたのもこの時だ。

大森はシドニーから戻った死の間際に、山本権兵衛総理と帝都復興院総裁の後藤新平に提案する。復旧では再び壊滅的な損壊を被るから復興が大事だ。消防用水の確保、耐震基準の強化、道路拡幅と公園の整備、防災意識の啓蒙。後藤の復興政策は大森の献策が基礎になっていたのだ。大森は帰国後、一カ月で亡くなっている。

1891年に濃尾地震が起こる。M8.0 で日本最大規模の直下型地震だった。愛知県と岐阜県を中心に14万棟の家が全壊、7000人以上が死亡した大惨事となった。貴族院議員であった菊池大麓は帝国議会へ震災予防研究の必要性を説く建議案を提出。この時、菊池は有名な演説を行っている。「あれだけの地震があったのにあの時に於てなぜ地震の事に就いて十分なる取調をしてなかったのであるか、あのときに幾分か取調べて置いたならば今回の震災は是程でもなかったらと言って我々を責めるでありませう」。

1892年6月、文部省所管の震災予防調査会が勅令により発足。菊池は委員となって、震災予防事業のために尽力し、明治・大正期を代表する地震学者の関谷清景や大森房吉らの研究を献身的にバックアップしている。

大森房吉は日本における地震学の創始者のひとりで、初期微動継続時間から震央を求める大森公式大森式地震計などを考案した。大森房吉はノーベル賞物理学賞の有力候補だった。外村彰(日立製作所)はノーベル物理学賞の有力候補にあげられ続けていたのだが、寿命が届かず70歳で亡くなっている。ニュートリノの戸塚洋二もそうだ。戸塚洋二はノーベル賞に最も近い日本人と言われていたが、2008年に不帰の客となった。ノーベル賞の受賞は寿命との競争という面がある。

上山明博は、ある学術雑誌で大森房吉の論文を発見する。東京での大地震震源域は相模湾沖であることを示唆する地図が掲載されていたことを突き止めている。「地震学をつくった男」「地震の生き神さま」「地震学の祖」は、関東大震災を予知していたのだ。その対策をなぜ当時の政府はとらなかったのだろう。このあたりのことは、再度この本を読んで確かめたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?