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「名言との対話」 2月26日。衣笠貞之助「(映画に)脚本はいるか? メモでいいんじゃないか」

衣笠 貞之助(きぬがさ ていのすけ、1896年1月1日 - 1982年2月26日)は、日本の俳優、映画監督、脚本家。

衣笠が映画界に足を踏み入れたのは1917年(大正6年)、22歳だった。日本映画の草創期である。この映画監督はもともとは新派の女形だった。衣笠は京都の衣笠山の見える下宿から、それに本名の貞之助をくっつけた芸名だ。

女形役者をしながら、好奇心で何でもためしてみる。脚本、撮影などのかんどころがだんだんわかってくると、自分の脚本で自分の作品を作りたくなる、そのチャンスが巡り、脚本・監督・主演という映画をつくってみている。牧野省三のマキノ映画時代には監督になる。沢田正二郎主演の「月形半平太」が当たった。いつまでも映画会社にいててはいけないという「青年」の心は独立をする。

新傾向の映画をいたいと決心し、松竹の白井信太郎に「衣笠映画連盟」のいっさいを預けて、足かけ3年のヨーロッパの旅に出る。ソ連や欧州の映画事情や映画技術を学んだ。日本初の本格的トーキー映画「忠臣蔵」をつくる。主演は林長二郎、後の長谷川一夫である。「雪之丞変化」も大成功だった。主題歌「流す涙がお芝居ならば、、、」は東海林太郎のヒット作になった。NHK「人物録ーーあの人に会いたい」では、「泣かさなきゃダメなと必ず観客は泣きますよ」と語っていた。

この自伝は1935年あたりで終わっている。40歳あたりだ。その後、衣笠は43歳で東宝映画に移籍。51歳でフリー。54歳、大映入社。58歳、イーストマンカラーの第1作「地獄門」がカンヌ映画祭グランプリ受賞・アカデミー賞(外国部門)受賞。その後も精力的に映画を作り続けている。衣笠は映画の黎明期から昭和の黄金期まで、万年映画青年として新しい表現を追い求め、生涯で118本の監督作品を遺した。

衣笠はメモ魔だった。「映画」をつくると考えながら、簡潔な詩的表現で生きたままのイメージを簡単にメモにする。「はげしい雨、降りしきる雨、病院」などのメモを前に画面が自ら展開していくのを待つ。進行にしたがって、しだいにヒントの書き込みが増えてくる。映像として膨れあがる。それが衣笠の映画作りである。「狂った一頁」という作品で川端康成、横光利一と仕事をしたとき、映画とは何かから始まった。脚本より、メモから始めるべきだという衣笠流の映画づくりはここで確信に変わったようだ。

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