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「名言との対話」2月9日。八木重吉「イエス。キーツ。「萬葉」の人々.そして 私の桃子ちゃん!」

八木 重吉(やぎ じゅうきち、1898年2月9日 - 1927年10月26日)は、日本の詩人。享年29。

東京都町田市生まれ。鎌倉の神奈川県師範学校。東京大塚の東京高等師範学校在学中にキリスト教に親しみ、21歳で徳永徳磨から洗礼を受ける。その後、内村鑑三の考え方に影響を受ける。

海辺の神戸の御影の兵庫県御影師範学校で4年、内陸の千葉の柏の東葛飾中学で1年、英語の教師をした。御影時代の教え子には「ゆきなさい。すすみなさい。ただただ、どんなときどんな」ことがあろう共、その純な眸のかがやきを失わぬ様にしてくれ」との手紙を書いている。21歳、スペイン風邪の罹患。快癒の後の下宿生活で、7歳年下ののちの妻の島田とみ子に出会う。23歳と16歳だった。二人は結婚し、桃子という女児をもうける。

澤村修治『八木重吉のことば』(理論社)を堪能した。八木重吉が詩を書いたのはわずか5年であった。書いた詩がたまると自分で小さな詩集を編む。手書きの詩、簡単なカット絵を描いた表紙、それをリボンで結わえる。一冊だけの手製の詩集である。1924年、27歳の重吉は生涯一冊だけの詩集『秋の瞳』を刊行する。以下、重吉の詩で私が好きなものを挙げる。

「花がふってくる 花がふってくる うたを歌おう」

「花はなぜうくつしいか ひとすじの気持ちで咲いているからだ」

「おだやかなきもちで こすもすの花をみていると そのうす紅い花がむねにうつるようなきがする」

「赤んぼが わらう あかんぼが わらう わたしだって わらう あかんぼが わらう」

「くものある日 くもは かなしい くもの ない日 そらは さびしい」

「この明るさのなかへ ひとつの素朴な琴をおけば 秋の美しさに耐えかね 琴はしずかに鳴りいだすだろう」

「どうせ短い命 出来る限り美しい心でいよう」

「いいものを ひとの足もとへそうっとおいて しらん顔をしていたい」

1909年(明治42年)から1918年(大正7年)は「日本近代史におけるもっとも輝かしい伊時代」だとドナルド・キーンが語っている。その時代にあっても、八木重吉は独特の存在だった。同時代の詩人たちは次のように語っている。

草野心平「美しさは独特で、こうした傾向のものとして類がない」

白鳥省吾「つつましい鈴を鳴らす順礼にも比すべきであるが、その心境は近代的で明るい、静かである」

高村光太郎「重吉の詩をおもい出すのはたのしい」「たのしいと言っただけでは済まないような、きれいなものが心に浮んで来る」

八木重吉の詩作の方法は、「純であれ。然し、リズム、メロディを失うな。美しかれ、しかし力あれ」だった。日記には「孤独は詩の電池だ」とも記している。

「社会のなかに独りぽつんと雪のかたまりのような存在だった」(草野心平)

私の住む多摩ニュータウンから車で少し走ると「八木重吉記念館」がある。車で遠出をするときに、みかけて訪問しようと思うが、そのままになっている。今度こそは、生家を訪ねることにしよう。

八木重吉は肺結核にかかり療養中に、病床で自選詩集を編み、第二詩集『貧しき信徒』をまとめ、没後4ヶ月に刊行された。その詩集の中で重吉は「息吹き返えさせる詩はないか」と歌っていた。

「イエス。キーツ。「萬葉」の人々。そして 私の桃子ちゃん!」という詩がある。

信仰と詩作、そして愛する家族。八木重吉の生涯を端的にあらわす傑作である。

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