「名言との対話」10月25日。田中耕太郎「日米安保条約は高度の政治性を有する。違憲か合憲かの法的判断は内閣と国会の政治的判断と表裏一体である。純司法的機能を使命とする司法裁判所の審査にはなじまない。一見きわめて明白に違憲無効であると認められないかぎりは、司法審査権の範囲外にある」。
田中 耕太郎(たなか こうたろう、1890年(明治23年)10月25日 - 1974年(昭和49年)3月1日)は、日本の法学者・法哲学者。
東京帝大法学部卒。内務省に入省するが、東京帝大に戻り教授(商法)、法学部長。第一次吉田内閣で文部大臣、1950年、吉田首相の推挙で第二代最高裁長官。60年に退官。その後、オランダのハーグにある国際司法裁判所判事に就任し、10年間つとめる。東大教授を経て、60代は最高裁長官。70代は国際司法裁判所判事。
田中耕太郎関して、以下、このブログでとりあげた記事を拾ってみた。
山本有三は参院では「緑風会」を田中耕太郎らと結成している。有三命名のこの名前は、参院を理性の場にしたいという念願からであった。
長谷川周重「大いなる摂理」(IPEC)を読むと、財界人の長谷川周蔵重は、一高で法学者の田中耕太郎からキリスト教カトリックの「信「望」「愛」の教えを学び深く影響を受けて、後に洗礼を受けている。
佐藤春夫は1960年に68歳で文化勲章を受賞している。同時受章は、数学者の岡潔、最高裁長官の田中耕太郎、小説家の吉川英治だった。
財界人で有名な「永野6京大」の長兄の護は、東大法学部在学中に親友の父の渋沢栄一から息子の勉強相手の名目で援助を受ける。それを故郷に仕送りし弟妹の教育にあてた。田中耕太郎に次ぐ2番で卒業後、晩年の渋沢の秘書として尽くす。
さて、2016年に、私は吉田敏浩ほか『検証 法治国家崩壊 砂川裁判と日米密約交渉』(創元社)を読了している。1959年12月16日に最高裁大法廷で行われた砂川裁判を戦後最大の事件として取り上げた労作だ。創元社の「戦後再発見」双書の第3弾。
「米軍駐留は憲法第9条違反」として日本を揺るがした伊達判決が3月30日。検察は最高裁に跳躍上告。上告審は9月7日から口頭弁論、審査は異例のスピードで開始され、わずか10日余りで6回の口頭弁論が終了する。「米軍駐留は合憲」の逆転判決があり、この日に日本国憲法はその機能を停止した。
伊達秋雄裁判長(東京地裁)
憲法9条は日本が戦争をする権利も、戦力を持つことも禁じている。安保条約は日本防衛だけでなく極東における平和と安全のために出動できる。米軍駐留は日本国憲法の精神に反する。
米軍の駐留は日本政府が要請しアメリカ政府が承諾した結果であり、米軍の駐留は憲法第9条第二項の戦力の保持に該当する。駐留米軍は憲法上存在を許されない。
田中耕太郎裁判長(最高裁)
憲法9条は他国の安全保障を求めることを禁ずるものではない。
憲法が保持を禁じた戦力とは、わが国が主体となって指揮権・管理権を行使し得る戦力を意味する。だから駐留米軍は憲法が禁じた戦力には該当しない。
日米安保条約は高度の政治性を有する。違憲か合憲かの法的判断は内閣と国会の政治的判断と表裏一体である。純司法的機能を使命とする司法裁判所の審査にはなじまない。一見きわめて明白に違憲無効であると認められないかぎりは、司法審査権の範囲外にある。
この地裁判決から最高裁判決までの経緯を、アメリカの公文書を詳しく読み込んで詳しく追った内容である。アメリカ国務省長官からの指示・誘導を受けて、日本は藤山外相を中心とした岸政権が田中耕太郎最高裁長官と相談している。そして指示通りの内容の判決を出す。統治行為論。司法の独立を最高裁長官自身が破ってしまう。
この判決で、憲法体系よりも、矛盾する安保法体系が上位に位置することになった。米軍は憲法を超えた超法規的存在となった。安保条約と関連する日米地位協定、付随する密約なども承認されたも同然となった。安保条約と日米地位協定という不平等条約が存在することを認めたことによって米軍は治外法権となった。法治国家崩壊である。その後、米軍は基地の騒音訴訟では日本政府の権限も司法権も及ばない第三者であるとして、損害賠償は認めるが飛行差し止めはできないという判決が下っていく。
田中耕太郎最高裁長官のこの判決は、よくもわるくも、その後の政治と司法の関係を規定したのである。
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