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「名言との対話」2月24日。直木三十五「芸術は短く、貧乏は長い」

木 三十五(なおき さんじゅうご、1891年明治24年)2月12日 - 1934年昭和9年)2月24日)は、日本小説家である。脚本家映画監督でもあった。

2011年に大阪谷町の直木が通った小学校の跡地に建っている、直木三十五記念館を訪問した。この記念館は下町の一角にある小さな建物の二階にあった。気をつけていないと通り過ぎてしまう。この界隈で生まれたという縁を大事にして、有志が努力して街づくりの一環として小さな記念館をつくった。推進している人にも挨拶をした。

黒い部屋がモチーフとなった建物は、横浜市金沢区にあった自宅のイメージを模している。驚いたのは畳張りだっだことだ。執筆時はいつも寝そべっていたということから、同じ気持ちになってみて欲しいという配慮だそうだ。

菊池寛が制定し、この人の名前をとった直木賞は有名だが、本人がどの様な人かは知られていない。本名は植村宗一。ペンネームは植という字をバラして直木という苗字にして、その時の年齢が三十一歳だったので、直木三十一と命名。毎年三十二、三十三と増やすというふざけたアイデアだったが、最終的には三十五で止まった。

若いころから直木は色々な仕事に手を染めるがうまくいかない。1923年の関東大震災以後は、大阪のプラトン社で川口松太郎と仕事をしている。因みに、死後に設置された直木賞の第1回の受賞者は川口であったことは縁としか言いようがない。

映画監督のマキノ省三とも一時に一緒に映画をつくって迷惑をかけている結果的に直木が書いた原作の映画は50本近くある。
38歳で書いた『由比根元大殺記』でようやく大衆作家となり、39歳で書いた『南国太平記』で流行作家になる。43歳で亡くなるが残した本は多い。「私程度の作品を一日三十枚平均で書けないやうなら、作家になる資格はない」(産経新聞2004年10月15日)。短い期間ではあったが、怒濤の仕事量の人であった。

直木は1934年に亡くなるが、翌年には友人の菊池寛文藝春秋社の事業として、芥川賞とともに直木賞を制定している。今では直木賞文学賞では日本の最高峰になった感がある。作家の肩書に「直木賞作家」はあこがれのまとである。紹介されるとき、亡くなったとき、この肩書で語れることが多い。

直木賞の選考会は料亭・喜楽で、1階が芥川賞、2階が直木賞というかたちで行われる。直木賞は新人による大衆小説という趣旨だったが、現在では実力のある中堅作家にも与えられている。

芥川賞との違いはわかりにくくなっているが、司馬遼太郎は「自己意識の強い人が芥川賞、他者との関係に目を向けたものが直木賞向け」という名言を吐いている。この方が純文学と大衆文芸というよりもわかりやすい感じがする。

最年少の20代では、朝井リョウ平岩弓枝山田詠美、三浦しおんらがいる。最高齢の60代は、古川薫、青山文平がいる。デビュー作での受賞は中村正䡄、初小説では青島幸男がいる。筒井康隆などこの賞が欲しいが何度も落選している作家も多いのだが、山本周五郎は受賞を辞退し、伊坂幸太郎は候補になることも辞退している。

直木三十五は、命名秘話もそうだが、無頼で破天荒人物だったようで、エピソードが多い。直木賞の地位が上がっていることを知ったら、菊池寛が「おい、賞をやったんだから分け前をよこせ。なんて無茶を言いそうな気がする」と言ったという話もある。愛すべき人でもあったのだろう。

長く貧乏だったこともあり、名言も多い。「貧乏の無い人生はいゝ人生だが、貧乏をしたつて必ずしも、人間は不幸になるものではない」。そして「人生は短く、芸術は長い」をもじった「芸術は短く、貧乏は長い」という警句も味がある。38歳で認められてからわずか数年後の43歳での死去であったから納得させられる。しかしその短い間に、怒涛の仕事をしたのである。直木三十五という名前より、「直木賞」が有名になったというのは不思議だ。人徳であろうか。

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