見出し画像

「名言との対話」11月14日。ジャワハルラール・ネルー「歴史を読むのは楽しみだ。だが、それよりもっと心を引き、興味があるのは、歴史を作ることに参加することだ」

ジャワハルラール・ネルー( 1889年11月14日 - 1964年5月27日)は、インドの初代首相インド国民会議議長。インド独立運動の指導者。

富裕なバラモン階級の家柄。イギリスの名門ハロー校を経て、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで自然科学を専攻した後、弁護士資格をとって、インドに帰った。

20歳年長のマハトマ・ガンジーと8歳年少のチャンドラ・ボースと手を携えて、インドのイギリスからの独立運動を指導するようになっていく。1947年のインド独立までの間にネルーは弾圧による獄中生活は通算10年に及んでいる。

初代首相となったネルーヒンドゥーを中心としたインドを、社会主義的で、政教分離を旨として、近代国家建設を主導していく。憲法制定、普通選挙を軸とした民主主義体制を発展させていく。そしてフランス領、ポルトガル領の植民地もすべてインドに吸収した。

内政では混合経済体制のもとで重工業を強力に推進。外交ではイギリス連邦の一員となった。「非同盟・中立」外交を掲げ、1955年にはバンドンでアジア・アフリカ会議の開催に第三世界の中心国の一つとして尽力した。1964年に死去。

独立運動中の長い獄中生活では、ネルーは『父が子に語る世界歴史』、『自伝』、『インドの発見』という3冊の著書を完成している。それらがネルーの代表作となっている。

ネルー首相は日本とは縁が深い。日本は日露戦争の勝利でアジア諸国を鼓舞したが、「近隣諸国を植民地支配下に置き、欧米諸国の帝国主義と同じ道を歩んだ」と批判しているが、極東裁判において、インドのパール判事は一人、日本無罪論を主張して、感銘を与えた。

1949年にはネルーは日本の子どもたちの要望に応えて、一頭のインド象を上野公園に寄贈した。娘と同じ「インディラ」と名付けられ、30年以上にわたって上野公園のシンボルとなった。

インドは1952年のサンフランシスコ平和条約には参加せず、後に日本とは単独講和を結んでいる。そして賠償の権利を放棄した。

1957年には岸首相のインド訪問にこたえる形で来日し、上野公園にも訪れて、ネルーは大歓迎を受けている。このとき、日本の近代化を評価しながらも、アジア諸国の抑圧を批判し、「技術の進歩に見合った精神性」の欠如を指摘している。

ネルーの日本に関する言葉を拾おう。

  • インドはまもなく独立する。この独立の機会を与えてくれたのは日本である。インドの独立は日本のおかげで、30年も早まった。

  • 彼ら(日本)は謝罪を必要とすることなど我々にはしていない。それ故、インドはサンフランシスコ講和会議には参加しない。講和条約にも調印しない。

  • インドだけではない。ビルマも、インドネシアも、ベトナムも、東亜民族はみな同じである。インド国民はこれを深く心に刻み、日本の復興には惜しみない協力をしよう。

1957年のバンドン会議でも、日本をオブザーバーとしての参加を認め、国際社会への復帰の足掛かりをつくってくれている。ネルー首相は日本では人気が高く、その名声は私も子供心に刻まれている。インドは、そしてネルーは戦後日本の恩人でもあるのだ。

ネルーは「歴史を読むのは楽しみだ。だが、それよりもっと心を引き、興味があるのは、歴史を作ることに参加することだ」と語った。ネルーは歴史を読み、歴史を書き、その上でインドの歴史を主人公としてつくったのである。

インドという存在、インドの成熟した視点は、過去も現在も、そして世界最大の民主主義国家であり未来の経済大国であるインドは日本にとって極めて重要な国である。日本人はこの国のことをもっと知らなくてならないとあらためて痛感した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?