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「名言との対話」2月21日。原阿佐緒「生きながら針にぬかれし蝶のごと悶えつつなほ飛ばむとそする 」。

原 阿佐緒(はら あさお、女性、1888年6月1日 - 1969年2月21日)は、明治-大正時代の歌人である。

2017年6月1日にはこのブログに以下を記している。

「名言との対話」6月1日。原阿佐緒「生きながら針にぬかれし蝶のごと悶えつつなほ飛ばむとそする 」。歌集に「涙痕(るいこん)」「白木槿(しろむくげ)」など。与謝野(よさの)晶子にみとめられて新詩社にはいり,「スバル」などに歌を発表。「アララギ」に参加したが、同門の石原純との恋愛事件で破門された。宮城県大和町宮床に生れたみちのくの抒情歌人、漂白の女流歌人、原阿佐緒記念館は雪景色の中にひっそりとたたずんでいる。類希な美貌と短歌や絵画の才能が阿佐緒に数奇な運命を招きよせる。東北帝大教授石原純とのスキャンダルで世論の攻撃を浴びる阿佐緒は地元でも批難の的となる。記念館では阿佐緒の遺した二冊の日記をテーマとした「蝶の日記」という企画展が記念館の二階で行われていた。阿佐緒は「これにはことさらにかかぬ、心乱れゐたる故ただにとりとめもなく筆にまかせてかく」と日記を書く心境を記している。記念館に掲げてある歌が実にいい。よき理解者であった与謝野晶子ばりの官能的で抒情豊かな歌が心に残る。「くろかみも このもろちちも うつしみの ひとはもはやふれざるならむ」「捨つといふ すさまじきことするまへに 毒を盛れかし 君思ふ子に」。才能があり、美貌の持ち主でもあった原阿佐緒は、そのために恋愛問題を引き起こしている。2度の結婚・離婚を経て、「アララギ」の重鎮の歌人でもあり、著名な物理学者で東北帝大教授の妻子ある石原純の一方的な求愛に翻弄される。冒頭の歌は飛ぼうとしても、様々のしがらみや世間の目からなかなか逃れられない女の身の悶えを詠んでい手心を打たれる。

3年後の今回、さらに4冊の本を読んだ。以下、追加する。

1909年(明治42年)、「女子文壇」で与謝野晶子が選んだ天賞の歌「この涙つひにわが身を沈むべき海とならむを想ひはじめ」から運命が開け、またその運命に翻弄される。犯されて子を宿した小原要逸。暴力を振るわれ耐えた庄司勇。慕われた古泉千樫、真山孝治。少女趣味的な美青年へのあこがれ。お人よしで不用心で自信家。、、そして求愛を受けいれざるを得なかった東北帝大教授の石原純との日々。当時の河北新報では「石原博士を食った妖婦原阿佐緒」とごうごうたる非難を受けた。石原は41歳で隠退。アインシュタイン来日時のの通訳するほどの物理学の大家だった。石原は粘着性の性格で幼稚性があり、女性語で話す人だった。その石原との7年の同棲も崩壊する。後に阿佐緒は石原について、「神から悪魔まで振幅する男だった」と語っている。

その後、阿佐緒の人生は大きく変化する。歌舞伎近くのバア「ラバン」のマネキンガール。数寄屋橋際に「阿佐緒の家」という名の酒場を開店。女優。「歌よみの阿佐緒は遂に忘られむか酒場女とのみ知らるるはかなし」。大阪北の酒場「ニューヨーク・サロン」の雇われマダム。梅田終点の東北側に「あさをの家」を開く。「かつて知らぬ社会(よ)のすがたをもつぶさに見む恐れを感ずわが職業(しごと)ゆゑに」。次男夫人桃子は中川一政画伯の娘であったこともあり、画伯の真鶴のアトリエのある邸に同居し水原秋桜子に俳句を習う。そして次男の杉並の新居で82歳で死去する。赤晃朗歌大姉位、は自らつけた法名である。

小野勝美偏『原阿佐緒文学アルバム』では、豊かな黒髪を持つ幼女、人形のような整った美人、あやしく微笑む妖婦、瞳の大きいモダンな現代女性、、、といった写真をみることができた。この美貌では世を騒がすだろう。そのことが良かったのか、悪かったかはわからない。『原阿佐緒自伝・黒い絵具』は小説の形をとっていて、恋愛の機微を詳細に語っている。

美人であったために、男たちからのさまざまなアプローチを受けて運命は大きな振幅を続けていく。一方でそういう境遇を自ら引き寄せるところもあったように感じる。その生涯は「生きながら針にぬかれし蝶のごと悶えつつなほ飛ばむとそする 」にみることできる。いずれにしても男や社会に翻弄されながら、波乱に満ちた、振幅の激しい奔放な生涯であり、興味をそそる女性である。

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