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「名言との対話」8月10日。両國勇治郎「両國という 角力恋して 春残し」

両國 勇治郎 (りょうごく ゆうじろう、 1892年 3月18日 - 1960年 8月10日 )は、 大相撲 の力士。

秋田県大仙市出身。1909年初土俵。新入幕の1914年5月場所で9勝1休でいきなり優勝を果たす。1915年に東関脇に昇進。その後、1921年まで三役から幕内上位に定着し活躍した。1924年引退し年寄り武隈を襲名。

両國勇治郎の四股名の勇治郎は本名。初土俵の1909年は両国国技館が開館した年だったことから「両國」となった。この四股名を見たり聞いたりするたびに両国国技館を思い浮かべる人も多かっただろう。この命名はヒットだ。

小兵、怪力、強い足腰、天才肌の豪快さ。そして均整のとれた筋肉質のみごとな体であり、また色白で男前だったため、両國は人気があった。

相撲取りの人気は、強さが中心だろうが、女性には美男であること、均整のとれた体格であること、しぐさの可愛さなども大きな要素だろう。現役力士では、跳猿や遠藤などの人気をみてもわかる。

私の記憶にある力士では、増位山、北天佑若嶋津などが思い浮かぶ。大鵬貴乃花などは強さと外見の両方がそろっていたために万人に愛されたということだろう。

戦前に活躍した小説家に田村俊子がいる。奔放な俊子は小説も書いたが、女優の経験もある美人だった。『炮烙(ほうらく)の刑』(本人と二人の男性との三角関係を描いた)、『山道』(佐多稲子の夫の窪川鶴次郎との情事を描いた)など、官能的な退廃美の世界を描き人気があった。その俊子は台東区蔵前生まれで相撲にもなじみがあった。この人が両國に惚れこんでおり、「両國を 思えばうつら うつらかな」、そして「両國という角力恋して春残し」という句を詠んでいる。「角力」は「すもう」と読む。昭和初期までは「角力」、戦後は「相撲」という字を使ったという。今でも「角界」というのもその名残だ。

田村俊子の生涯や作風が念頭にあると、この句の最後の「春残し」が効いている感じがする。

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