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名言との対話」11月13日。布施辰治「生きんべくんば民衆とともに、死すべくんば民衆のために」

布施 辰治(ふせ たつじ、1880年明治13年)11月13日 - 1953年昭和28年)9月13日)は、弁護士社会運動家である。

布施辰治は宮城県石巻出身。22歳:判事登用試験合格、宇都宮地裁、25歳:トルストイに傾倒、26歳:東京市電値上げ反対騒擾事件弁護、37歳:普選運動を始める、38歳:米騒動弁護、39歳:万歳事件、41歳:自由法曹団結成、42歳:借家人同盟結成、43歳:朝鮮に渡る、46歳:日本労働組合総連合会長、52歳:弁護士除名、60歳:プラカード事件、69歳:三鷹事件弁護団長、松川事件、71歳:公安条例廃止運動、72歳:血のメーデー事件、大阪吹田事件、73歳:内臓ガンにて死去。明治法律学校を卒業した布施辰治は、農民、労働者、借家人、朝鮮人という弱者の側に立って生涯にわたって活動を行った。私のブログにも何度か登場している。

2006年。2年ほど前の河北新報で布施辰治という名前を見かけた。私にとっては懐かしい名前である。河北新報の記事によると、布施辰治は宮城県石巻市蛇田の出身の人権派弁護士で、韓国政府から日本人初の「韓国建国勲章」(平成16年)を受けたとのことで、その後たびたび紙面にとりあげられ、ようやく布施辰治の常設コーナーがある石巻文化センターを訪問した。センターの隅に布施辰治の小さな展示コーナーがあった。石巻市は布施辰治顕彰会と家族から5000点の資料を寄付され、このコーナーをつくった。

明治法律学校を卒業した布施辰治は、農民、労働者、借家人、朝鮮人という弱者の側に立って生涯にわたって活動を行った。法律家・思想家・社会運動家として生きた布施辰治の座右の銘として次の言葉が紹介されている。「生きべくんば民衆とともに、死すべくんば民衆のために」「正しくして弱き者のために余を強からしめよ」。また、「敬天愛人」の本人自筆の書もある。この言葉は、江戸時代の大儒佐藤一斎の言葉であり、西郷隆盛などが座右の銘としていたが、布施辰治もこういう心持で人生を生きていたのであろう。

布施辰治の遺品は、朝鮮建国憲法草案私稿、表札・印鑑セット・硯箱セット・法衣・写真・法帽・弔辞・松川事件訴訟趣意書、、、。

伝記によれば間引きされる運命にあったが、早産で産婆が間に合わず、生まれてしまった布施辰治は、人生を意義あらしめることに人一倍信念を注ぐことになったのである。布施辰治は、法廷の戦士から、社会運動の闘卒へと向かう。個人の救済から社会の改造へと、弁護士活動を拡大して行った。「朝鮮と中国のような第一級の文化を持つ国民を武力で鎮圧してはならない」「徳で統治すれば栄え、力で統治すれば滅びる」「彼らの法律で彼らを縛れ」「弁護士活動を前進させ、社会運動の一兵卒となる」「自由を奪われた者は自由を奪い返す為、食物を奪われた者は食物を奪い返す為、闘わざるを得ない」

布施辰治研究の第一人者である森正・名古屋市立大学名誉教授によれば、弁護士の使命は「人権の擁護と社会正義の実現にある」と明記されており、弁護士法第一条に一貫して忠実であろうと苦闘したと述べている。足跡の幅の広さ、重さ、権力との長きにわたる緊張関係、その密度の濃さ等から布施は弁護士群像のシンボル的存在としている。

布施の人権思想は、自由民権思想(あらゆる思想に寛容であるべきとするヴォルテール的発想)、東洋思想(論語陽明学キリスト教キリスト教人道主義)、初期社会主義思想、トルストイ思想(人間の価値と尊厳性を重んじ、良心を信じる)の5つの思想によってなりたっている。

石巻文化センター調査研究報告の「奥の入会紀行」を読む。「空想や妄想に放散することを戒める思索訓練法」「今度の旅行は、そういう入会権事件の研究を徹底して、私の残生を捧ぐべく決心した」「四時起床、、、、六時まで日記を書く」「昨晩はどうしたものか、大杉栄氏の夢を見た」「床上運動を一時間ばかりやってから起きた」「私はどんな所にも、何時でも眠られる」

2006年。仙台市青年文化センターで行われた演劇を観る機会があった。「疾風る」は「はせる」と読む。人権弁護士として最近話題にとりあげられている宮城県出身の布施辰治の生涯を描いた作品である。布施辰治は戦前は朝鮮人独立運動を擁護したり、法廷侮辱罪で下獄したり、戦後は三鷹事件弁護団長などで活躍した。出身の石巻文化センターに布施を顕彰したコーナーがあり訪ねたことがある。

演劇にみる布施は、まさに疾風のように人のため世のために次から次へと仕事をしていく。人柄は朴訥で陽気だが、権力に対する厳しい言論は迫力がある。布施役の木村純一の演技も達者で、いかにもこのような人物だっただろうなという姿を見事に演じている。最後の演説も胸を打つものだった。会場は大きかったが、この一般には無名の人物の劇であるのに、意外に観客は多かった。パンフレットの広告は仙台の法律事務所がほとんだった。劇の内容もそうだったが、憲法をまもろうという人たちが駆けつけたという雰囲気だった。

2010年。19時から多摩センターのパルテノン多摩小ホールで開催された上映会を観てきた。ドキュメンタリー映画「弁護士 布施辰治」で、韓国併合100年、布施生誕130周年にあたるのに合わせて企画された。

布施辰治は、1880年宮城県石巻生まれの弁護士。韓国併合の翌年「朝鮮野独立運動に敬意を表す」を発表、普通選挙権運動、自由法曹団や救援会などの組織、また関東大震災直後の朝鮮人虐殺事件で政府を徹底して糾弾、借家人同盟の結成、大逆罪を問われた朴烈・金子文子の弁護、台湾精糖の横暴に苦しむ農民弁護、岩手県北上入会地紛争の調停など、極めて精力的に活動を展開した。弾圧も受けて3.15事件で逮捕、治安維持法違反で弁護士資格を剥奪される。朝鮮建国憲法私稿作成、三鷹事件弁護団長、、、。2004年に韓国政府は独立に寄与した愛国の士として「建国勲章」を贈る。

人の前でなく神の前で英雄になる。ニコライ堂。明治法律専門学校。自然法。社会。関東大震災での朝鮮人虐殺は6600人、中国人は700人。任侠弁護士。日本人シンドラー。自己革命の告白。カン徳相(在日韓人歴史資料館館長)。カンサンジュン(政治学者)。森正(名古屋市立大学名誉教授)。孫の大石進(日本評論社前会長)、、、、。

この布施辰治は、私が高校2年生のときに読んだ「ある弁護士の生涯」というタイトルの岩波新書の主人公で、この本が契機となって弁護士を志して法学部に進学することになった。しばらく忘れていたが、宮城大学時代に石巻の記念室を訪問したり、明治大学での講演の時にこの大学の立派な卒業生として名前を見たり、布施をテーマとして演劇を観たりしている。、そして今回、リレー講座受講者の呉成黙(オソンム) さんの私のホームページへの書き込みがきっかけで映画を観ることになった。私にとっては懐かしい名前である。

映画を観ている人も多かった。布施辰治の孫の大石進の「弁護士 布施辰治」(西田書店)と「弁護士 布施辰治を語る」(日本評論社)を購入する。

弁護士・布施辰治は、大震災で朝鮮人が大量虐殺されたことに怒り、朝鮮人の支援と、独立を助ける活動を開始したのである。帰りに「朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー−−京都朝鮮中高級学校生による詩と散文」をもらう。高級部三年の呂仁珠さんの詩「キラキラ光る無償化の文字 私たちの心を躍らせた 手を振って去る無償化の文字 私たちの心を凍らせた」。高級部3年の安萊葉さんの詩「私たちにあるものは 悲しくつらい過去である。 私たちにないものは 楽しく明るい過去である。 私たちにあるものは ないはずの差別である 私たちにないものは あるはずのない権利である 私たちにあるものは 明るく眩しい未来である 暗く進めない未来である」布施辰治が関わった事件の概要を記しておく。有名な事件が多い。

・プラカード事件。1946年5月19日の食糧メーデー。「朕はタラフク食ってるぞ、ナンジ人民飢えて死ね」というプラカード文面が不敬罪起訴

三鷹事件。1949年7月15日。無人電車が暴走、駅前の民家に突入、通行人6人が即死、20余人が重軽傷。吉田茂首相は、共産党の行為と断定。国鉄労組9人逮捕

松川事件。1949年。脱線転覆で乗務員3人が即死。最高裁差し戻し判決で全員無罪

・血のメーデー事件。1952年5月1日。死者2名、負傷者1500名。1232名が逮捕。最高裁で全員無罪

私は高校2年生のとき、岩波新書の「ある弁護士の生涯」という本を読んで、布施辰治という人物の生き方に感動した。私はこの時点で進路に決断を下した。法学部に行って弁護士になろうと決心したのである。このときの姿を母は「朝の厨に貧しき人のため弁護士になると吾子は告げに来」と短歌に詠んでくれている。私はその後法学部に進む。

その後、数十年経って、仙台、そして多摩で再び知ることになった。また大学の韓国人同僚からもこの人の名前を聞いている。私は弁護士にはなれなかったが、この人物と書物が人生の進路に影響を与えたことは間違いない。

2011年の東日本大震災石巻文化センターが被災している。布施辰治のコーナーは今はどうなっているのだろうか。



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