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「名言との対話」5月21日。半藤一利「昭和史の教訓ーー根拠なき自己過信と底知れぬ無責任」

半藤 一利(はんどう かずとし、1930年〈昭和5年〉5月21日 - 2021年〈令和3年〉1月12日)は、日本のジャーナリスト、戦史研究家、作家。享年90。

文藝春秋社に入社。坂口安吾を担当する。「週刊文春」編集長時代はロッキード事件取材を陣頭指揮。「文藝春秋」編集長。1993年『漱石先生ぞな、もし』で新田次郎文学賞。専務取締役を経て1995年に退社し、「歴史探偵」を自称し作家活動に専念する。

1998年、『ノモンハンの夏』(大宅壮一の名を使った)で山本七平賞。2006年、『昭和史』で毎日出版文化賞特別賞。2009年、語り下ろしの『昭和史1926-1945』『昭和史戦後編1945-1989』。2015年、菊池寛賞を受賞する。

私は半藤さんの本はよく読み、テレビの対談やインタビューも聞き、映画になった作品も見ている。昭和や太平洋戦争については、この人から学んだ。半藤の持論は「憲法9条を守るのではなく育てる」だった。

オーディオブックで、半藤一利『昭和史』(1926-1945年)34巻を全編聴いた。著者の半藤さんが語るのを聴くという講義スタイルなので、毎日少しづつ勉強するということになる。勉強と健康の一石二鳥である。

この「昭和史」は、終戦時に中学生だった半藤さんの実感も交えて、1928年(昭和3年)の満州某重大事件(張作霖爆殺事件)から始まった日中戦争の全過程、その延長線上に勃発する大東亜戦争への突入と1945年の敗戦に至るまでの激動の昭和の前半が語られている。この20年の過程で、日本人の死者の合計は310万人を数えるという惨憺たる結果になった。明治維新から日露戦争まで40年かかって築いた大日本帝国は、その後の40年で滅び焦土となった。

半藤一利は、この「昭和史」の教訓をあげている。総括すると、日本は「根拠なき自己過信」に陥っていた。「国民的熱狂をつくってはいけない」「抽象的観念論を好み、具体的理性的な方法論を検討しなかった」「タコツボ社会の集団主義の弊害」「終戦にいたる国際的常識を理解していなかった」「大局観・複眼的考え方がなく、対症療法、短兵急な発想に終始した」。日本は気がついたら、最終的に中国、米英、ソ連などほとんど全世界を相手に闘うということになってしまっていた。そしてこの大戦争は始めたはいいが、やめることは実に難しかった。

聴き終わって、軍部の暴走、マスコミの扇動、国民の熱狂、冷静さの喪失、責任者の無責任、人事の怖さ、世界情勢に対する感度不足、情報戦での敗北、、、など感ずるところが大であった。この昭和史は、日本人自身の陥りやすい欠点がすべて込められていると思う。

後半の『昭和史』(1945-1989年)も聴いたのだが、「戦前編」32巻と合わせて68巻になる。一つ30分としても34時間以上の時間がかかっている。約2カ月間、半藤節を通勤途上で聴いたことになるが、実に充実した時間だった。歴史に関するオーディオブックは、読み上げるアナウンサー口調だと無味であるが、その時代を生きた人物が語り下ろすという工夫は人間味があって楽しめる。

最後に「横町の隠居なりのお節介な忠言」として、今の日本(小泉内閣の末期の2005年から2006年にかけて)に必要なことを述べている。1・無私。私を捨てて努力と知恵を絞ることができるか。2・勇気。自分の組織から出て行く勇気を持てるか。3・大局。グローバル展望力を持つ、そういう勉強ができるか。4・自立。他国に頼らないで情報を得ることができるか。5・風格。大事を成すことができるか。

「日本型リーダーはなぜ失敗するのか」(文春新書)の最後の「あとがき」の最後に、「げに人のリーダーたるは難きかな、人に信頼の念を抱かせる人格形成は難きかな、なのである」と述べている。日本の軍隊はリーダー像をどのようにとらえていたのか。威厳と仁徳などの人格論に終始していた。しかし日本の軍隊はリーダーを補佐する参謀を重視し、陸大や海大は軍事オタク養成機関に過ぎなかったと喝破している。その参謀がやがてトップになっていくというしくみである。海軍大学校では「戦略・戦術・戦務・戦史・統帥権・統帥論」が72.8%。「国際情勢・経理・法学・国際法」といった軍政の授業は13.2%、「語学・日本史」などの一般教養は14%しかなかった。人格教育などはできていなかったらしい。それが太平洋戦争の敗戦につながっているという見立てだ。 リーダーに必要な世界観の醸成と人物としての修養に失敗したということだろうか。

辻正信にインタビューしている。大本営参謀は軍中枢部であるのはずだが、上層部の責任となっている。半藤一利は実際に辻に会った後「辻は自分の責任を全く考えていない、絶対悪というものが存在するのならば、この男のようなものを言うのだろう」と厳しくみている。敗戦の原因が辻正信のいうとおりならば、とうてい総合力としての国力からみれば、戦争を起こすことはできるはずもなく、また勝つはずもなかった。

松本清張と司馬遼太郎は様々な面で興味深い比較ができるようで、両方と近い関係にあった編集者で後に作家となった半藤一利は「清張さんと司馬さん」というエッセイをものしていた。ローアングルの清張はデビュー作から最晩年の「両像・森鴎外」まで一貫して鴎外に興味を持ったのに対して、ハイアングルの司馬は晩年には漱石を懐かしむようになった。

半藤一利原作の『日本のいちばん長い日』は、昭和天皇や鈴木貫太郎内閣の閣僚たちが御前会議においてポツダム宣言を受け入れ日本の降伏を決定した1945年(昭和20年)8月14日の正午から宮城事件、そして国民に対してラジオ(日本放送協会)の玉音放送を通じてポツダム宣言の受諾を知らせる8月15日正午までの24時間を描いている。岡本喜八の1967年版と原田真人監督の2015年版があり、私は戦後70年を記念した2015年版をみた。昭和天皇は本木雅弘、鈴木貫太郎首相は山崎勉、阿南陸相は役所広司が演じたこの作品は、強い意思、狡猾さ、自己犠牲を持つこの3人のチームプレーで終戦となったストーリーとして描いており、話題になった。昭和天皇44歳、鈴木貫太郎首相77歳、阿南陸軍大臣58歳だった。何事も始めるのは簡単だが、終わり方は実に難しいものだが、特に戦争の場合は特にそうだと痛感した。1967年版では、切腹する直前に阿南陸相に「生き残った人々が、二度とこのような惨めな日をむかえないような日本に、、、なんとしてもそのような日本に再建してもらいたい」と語らせている。

新宿区立漱石山房記念館がオープンしている。早稲田から歩いて10分。漱石が1907年の40歳から1916年に49歳で亡くなるまで住んだ場所だ。「夢十夜」「三四郎」「それから」「門」「彼岸迄」「行人」「こゝろ」「道草」「明暗」「硝子戸の中」などの作品を書いた家である。名誉館長は半藤茉莉子。この人は漱石の五女の筆子の娘で、作家の半藤一利の妻である。

2021年『文芸春秋』3月号は「追悼!半藤一利」特集だった。9歳年下の保阪正康、40歳年下の磯田尚道らが、先輩・半藤を語っている。半藤のいう「根拠なき自己過信と底知れぬ無責任」、それを昭和史の最大の教訓と考えたい。戦後70年以上経って、この教訓をあらためて心に刻みたい。

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