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「名言との対話」 4月30日。大佛次郎「僕は他の人間のように固まってしまってはいない」

大佛 次郞(おさらぎ じろう、1897年(明治30年)10月9日 - 1973年(昭和48年)4月30日)は、日本の小説家・作家。

東京帝国大学政治学科卒業後、外務省に勤務。1923(大正12)年の関東大震災を機に同省を辞し、文筆に専念する。『鞍馬天狗』シリーズで前近代的大衆文学を刷新、斬新な作風は急速に支持を得た。『パリ燃ゆ』『帰郷』『地霊』など歴史と社会に取材した作品も多い。1964年、文化勲章受章。1

2006年に大仏次郎記念館(横浜市:港が見える丘公園)を訪問した。建物はれんが造りの洋風建築である。原稿、創作ノート、蔵書などのほか、愛蔵品の猫の置物などのコレクションを展示している。この記念館には神奈川近代文学館の催しにでかけるときに、時々寄っている。2019年には、漫画「ヨコハマ物語」を描いた「大和和紀」展をやっていた。大佛次郎の全著作の棚をのぞくと800冊を超えていて「驚いた。そこでエッセイ集『旅の誘い』を買った。以下、そこから。

丸善について。「売れる原稿を乱暴に書くようになったのは、買った本の支払いのためであった。丸善の本が私を濫作する大衆作家にしてしまい、苦し紛れに「鞍馬天狗」をかかせた。そして入った金でまた本を買い込むように使役した。、、、どうやら丸善のために1代せっせと働き、大衆作家と言う看板が晩年になってからも私から取れなくなった」
作家を見つめるエッセイも楽しい。木村荘八については、しっかりしたデッサンの上に、生きた絵を書く人で、背伸びして毎日の原稿に骨を折ることになった。吉川英治については、代表作は「宮本武蔵」で、武蔵が剣道の達人に成長する精神的な経歴が、吉川英治自身のものであるという。人に不安疑義を抱かせる文学が西洋文学の特質であり、人に安心を与える与え依らしめる文学は日本的な性質であり、吉川英治は後者だ。。長谷川伸については、明治人の代表の1人で、股旅物の名称は長谷川が生んだとしており、地の塩を人に知らせ最後の作家だとする。佐藤春夫については、頑固で自説を守って譲歩しない人。吉野秀雄は、「天皇の世紀」を書こうとする自分に、何千という天皇の歌を読破して品別をつけてくれた。川端康成については、少年の時の顔そのまま老後に持ち越し、あるいは少年の時から若々しい中に50年後の老年の顔を持っていたと述懐している。獅子文六は、真面目に人を書いて何となくおかしい作風で、漱石よりも品のいい上の小説を書くとほめている。

NHKアーカイブス「あの人に会いたい」で文化勲章受章時の映像をみた。仕事観を語っていた。「現実を組み伏せて、はっきりと押さえ付けなければ書けないわけです」「時代の潮流ですね。浮き沈みする人間を書いているが、背後の時代、そこから目を離さずにいる。それは僕の一生の仕事に全部通じている」

「僕は他の人間のように固まってしまってはいない」という大佛次郎は、小説・ノンフィクション・批評・劇作・児童文学と多岐にわたって活躍した。弱い者の味方で真の正義感を心に持つヒーロー像を描き続ける一方で、ノンフィクションの分野では『ドレフュス事件』『パリ燃ゆ』など、海外の歴史や社会に題材を得た作品を数多く発表した。

「仕事というものはまだ自分の知らない自分を探すようなもので、これからも努力を続けて、これまでやらなかったような新しいものを書いてみたいという心持でいる」大佛次郎は、70歳を過ぎてからライフワーク『天皇の世紀』に取り組んだ。幕末以降の日本人の歴史を振り返り、透徹した歴史認識と批評精神で、流されやすい日本の国民性に警鐘を鳴らした。日本の歴史と日本人の精神に迫ろうとした大作であるが、6年後に力尽きて未完に終わる。

「僕は他の人間のように固まってしまってはいない」という大佛次郎は、これからの勉強で何かになるだろうと考えるのは楽しいとし、50になろうとして後子供じみた初一念を持っていると言うのはおそらく他人にはないことらしいから心強いと思うとも語っている。自分の知らない自分を探す生涯だった。 「この世は自分を探しに来たところ、この世は自分を見に来たところ」という陶芸家の河井寛次郎の言葉を思い出した。人生100年時代は、固まらずに、新しい自分を探し続ける旅をしようとする精神が大事になる。

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