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久恒啓一の「名言との対話」誕生日編4

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11月17日。イサム・ノグチ「自然が最大の彫刻である」

11月17日。イサム・ノグチ「自然が最大の彫刻である」

イサム・ノグチ(Isamu Noguchi、日本名:野口 勇、1904年11月17日 - 1988年12月30日)は、アメリカ合衆国ロサンゼルス生まれの彫刻家、画家、インテリアデザイナー、造園家・作庭家、舞台芸術家。日系アメリカ人。

父親の野口米次郎は有名な英詩人、小説家、評論家、俳句研究者であった。母親のアメリカ人の作家で教師のレオニー・ギルモアについては、後年「僕の人生に、もっとも影響を与え

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12月31日。林芙美子「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」

林 芙美子(はやし ふみこ、1903年(明治36年)12月31日 - 1951年(昭和26年)6月28日)は、日本の小説家。

新宿区落合の高級住宅街の一角にある女流作家・林芙美子の旧居を訪ねた6月28日は、たまたま47歳の若さで逝った林芙美子の命日だった。林芙美子は行商人の子として貧乏の中で文学を志す。1930年(昭和5年)の27歳で書いた『放浪記』がベストセラーになって一躍スターダムにのしあが

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12月30日。小杉放庵「東洋にとって古いものは、西洋や世界にとっては新しい」

小杉 放庵(こすぎ ほうあん、1881年(明治14年)12月30日 - 1964年(昭和39年)4月16日)は明治・大正・昭和時代の洋画家。

日光東照宮の近くにある小杉放庵日光美術館は樹木や建物が周囲の景観と一体化した立派な美術館である。鉄骨の構造を視覚的に生かした大屋根は優れた音響効果を発揮するため、季節ごとに室内音楽のコンサートも開催できる空間を持っている。市が出資している財団法人となってい

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12月29日、グラッドストン「いつまでも若くありたいと思うなら、青年の心をもって心としなければならない」

ウィリアム・ユワート・グラッドストン(英語: William Ewart Gladstone [ˈwɪljəm ˈjuːwɑːt ˈglæd.stən], FRS, FSS、1809年12月29日 - 1898年5月19日)は、イギリスの政治家。

好敵手である5歳年長の保守党党首ベンジャミン・ディズレーリとともに、イギリス最盛期のヴィクトリア朝(1837年から1901年)の政党政治を代表する人物

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12月28日。石原裕次郎「美しき者に微笑を 淋しき者に優しさを 逞しき者に更に力を 全ての友に思い出を 愛する者に永遠を 心の夢醒める事無く」

石原 裕次郎(いしはら ゆうじろう、1934年(昭和9年)12月28日 - 1987年(昭和62年)7月17日)は、日本を代表する俳優、歌手。

石原慎太郎のベストセラーに石原裕次郎のことを書いた『弟』という作品がある。作家と俳優というこの二人の年齢差は二つだ。この作品を読むと兄の目から弟や弟との関係を描いていて、共感を覚えるシーンが多々あった。私の二つ違いの弟にも読むことを勧めた記憶がある。仲間

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12月27日。松平定信「いや、こういう時こそ、人心を一新する絶好の機会だ。不幸をかえって幸いとすべきだ」

松平 定信(まつだいら さだのぶ)は、江戸時代中期の大名、老中。陸奥白河藩第3代藩主。定綱系久松松平家第9代当主。江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫に当たる。

奥州白河藩主となり、天明の大飢饉に際して藩政の再建と領民生活の立て直しに成功し名君と呼ばれた。その腕を買われ老中首座となり、田沼意次の政策を否定し、1787年から1793年まで、棄捐令、囲米の制、異学の禁などの寛政の改革を行った。緊縮財政へ

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12月26日。五代友厚「仕事は命がけや。死んでも仕事は残る。そういう仕事をせなあかん」

五代 友厚(ごだい ともあつ。天保6年12月26日(1836年2月12日--1885年9月25日)は、江戸時代末期から明治時代中期にかけての日本の武士(薩摩藩士)、実業家。

薩摩藩武士の次男。15歳、藩から長崎海軍伝習所の練習生に選ばれ航海術を学ぶ。慶応元年寺島宗則とともに14名の留学生を率いてイギリスに渡る。帰国後、明治新政府の参与兼外国事務掛となり、会計官権判事。その後、実業界に転じて、大

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12月25日。白隠「煩悩即菩提」

白隠 慧鶴(はくいん えかく、1686年1月19日(貞享2年12月25日) - 1769年1月18日(明和5年12月11日))は、臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧である。

「駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠」、と富士山と並び称される白隠という禅坊主がいた。白隠という号も富士山に因んでいる。「富獄は雪に隠れている」とのたとえからとったものである。

臨済宗中興の祖白隠は沼

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12月24日。鈴木貫太郎「永遠の平和、永遠の平和」

鈴木 貫太郎(すずき かんたろう、1868年1月18日(慶応3年12月24日) - 1948年(昭和23年)4月17日)は、日本の海軍軍人、政治家。

海軍士官として海軍次官、連合艦隊司令長官、海軍軍令部長などの顕職を歴任した。予備役編入後に侍従長に就任。二・二六事件では襲撃されるが気丈な妻たかの機転で一命を取り留めている。小磯國昭の後任として内閣総理大臣(第42代)に就任し、陸軍の反対を押し切っ

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12月23日。森戸辰男「何といっても教育の中心は教師です。いかによい制度ができても、いくらよい指導精神が紙の上ででき上がりましても、いくらよいカリキュラムや教育方法が考案されましても、よい教師がいなければよい教育は行えません」

森戸 辰男(もりと たつお、1888年(明治21年)12月23日 - 1984年(昭和59年)5月28日)は、日本の学者、社会思想家、教育者(初代広島大学学長)、政治家(文部大臣)。

第一高等学校時代に新渡戸稲造校長の倫理の講義に感銘を受ける。東京帝大法科大学経済学科を卒業後、大学に残った。大内兵衛編集の機関誌「経済学研究」にロシアの無政府主義者クロポトキンの論文の翻訳を発表し、学内から排撃を受

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12月22日。神永昭夫「人並みにやっていたら、人並みにしかならない」

神永 昭夫(かみなが あきお、1936年12月22日 - 1993年3月21日)は日本の柔道家(講道館9段)。

全日本選手権を3度制した神永は、ライバル猪熊功と1960年代初頭に神熊時代を築いた。柔道がはじめて採用された1964年の東京オリンピックでは無差別級に出場するも、決勝戦でオランダのアントン・ヘーシンクに敗れて銀メダルに終わった。母校の明治大学柔道部監督に就任し、上村春樹を育てあげた。1

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12月21日。松本清張「疑いだね。体制や学問を鵜呑みにしない。上から見ないで底辺から見上げる」

松本 清張(まつもと せいちょう、1909年(明治42年)12月21日- 1992年(平成4年)8月4日)は、日本の小説家。

北九州の小倉城脇に立つ地上2階、地下1階の松本清張記念館を訪ねる。床が磨きこまれていて、手入れの行き届いた素晴らしい記念館である。自宅を模した建物が一階と2階から見れるようになっている。放映しているビデオは、縁のあった編集者たちが語る松本清張を流していて興味深い。この作家

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12月20日。藤本定義「おい哲(川上哲治監督)! うちの豊(江夏豊投手)を乱暴に使いやがって! この馬鹿野郎!」

藤本 定義(ふじもと さだよし、1904年12月20日 - 1981年2月18日)は、愛媛県松山市生まれのプロ野球監督。東京巨人軍初代監督。

9シーズンで7度の優勝という巨人軍第一次黄金期を築き1942年シーズン終了後に辞任。1946年にパシフィックの監督として球界に復帰。選手の待遇改善のために日本野球選手会〔現:日本プロ野球選手会〕を発足させ初代会長に就任した。1948年から1956年まで金星

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12月19日。井上成美「日露戦争で勝った発想で、現在の軍備を考えているとは、時代錯誤そのものである」

井上 成美(いのうえ しげよし/せいび、1889年(明治22年)12月19日- 1975年(昭和50年)12月15日)は、日本の海軍軍人。海軍大将となった最後の軍人。

井上成美は、明治22(1889)年、宮城県仙台市生まれ。仙台の、仙台二中を卒業し、江田島の海軍兵学校に学ぶ。海軍兵学校の入学時の成績は180名中8番、卒業時は2番だった。

当時の井上軍務局長は、米内光政海軍大臣と山本五十六海軍次

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