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久恒啓一の「名言との対話」

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日本近現代の偉人たちのの生涯と絞り出した名言から学ぶマガジンです。 誕生日や命日を切り口に、2016年1月1日から毎朝書き続けています。 2500日を超えてきました。「日本の精神…
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2022年3月の記事一覧

「名言との対話」3月30日。阿部真之助「恐妻とは愛妻のいわれなり」

阿部 真之助(あべ しんのすけ、旧字体:眞之助、1884年(明治17年)3月29日 - 1964年(昭和39…

久恒 啓一
2年前
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「名言との対話」3月29日。羽仁五郎「自分の国だから我々は日本を批判するのだ。批判…

羽仁 五郎(はに ごろう、1901年(明治34年)3月29日 - 1983年(昭和58年)6月8日)は、日本の…

久恒 啓一
2年前
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「名言との対話」3月28日。桂三木助(3代目)「二十年たって似合いの好い夫婦」

三代目 桂 三木助(かつら みきすけ、1902年3月28日〈戸籍上は1903年2月17日〉 - 1961年1月16…

久恒 啓一
2年前
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「名言との対話」3月26日。李承晩「一つになれば生き延び、ばらばらになれば死ぬ」

李 承晩(り・しょうばん、イ・スンマン 1875年3月26日 - 1965年7月19日)は、朝鮮の独立運動…

久恒 啓一
2年前
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「名言との対話」3月25日。島崎藤村「大きな言葉と小さな言葉」

島崎 藤村(しまざき とうそん、1872年3月25日(明治5年2月17日) - 1943年(昭和18年)8月22…

久恒 啓一
2年前
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「名言との対話」3月24日。本多光太郎「産業は学問の道場なり」

本多 光太郎(ほんだ こうたろう、1870年3月24日(明治3年2月23日) - 1954年(昭和29年)2月1…

久恒 啓一
2年前
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「名言との対話」3月23日。内村鑑三「最大遺物とは何であるか。、、人間が後世に遺すことにできる、ソウして誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば「勇ましい高尚なる生涯」であると思います」

内村 鑑三(うちむら かんぞう、1861年3月23日(万延2年2月13日)- 1930年(昭和5年)3月28日)は、日本のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。 札幌農学校入学後、W.S.クラークの感化で受洗。卒業後渡米してアマースト大学などに学ぶ。1891年第一高等中学校講師の職を教育勅語に対する不敬事件のために追われてから、1897年「万朝報」記者となり、「聖書之研究」(を主宰。足尾鉱毒事件での社会正義の主張、日露戦争時の非戦論など、信仰と世界的視野に立つ愛国・正

「名言との対話」3月22日。中山晋平「らしく、、、というのはいい言葉だよ。誰でもそ…

中山 晋平(なかやま しんぺい、1887年(明治20年)3月22日 - 1952年(昭和27年)12月30日)は…

久恒 啓一
2年前
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「名言との対話」3月21日。柳宗悦「利休程度の仕事に自分の仕事を止めるわけにはゆか…

柳 宗悦(やなぎ むねよし、1889年(明治22年)3月21日 - 1961年(昭和36年)5月3日)は、民藝…

久恒 啓一
2年前
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「名言との対話」3月20日。伊奈長三郎「土は水を得て形となり、火を通してやきものに…

伊奈 長三郎(いな ちょうざぶろう、1890年3月20日 - 1980年10月10日)は、日本の実業家、政治…

久恒 啓一
2年前
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「名言との対話」3月19日。森田草平「自分は永遠に漱石の弟子であり、自分自身は一生…

森田 草平(もりた そうへい、1881年〈明治14年〉3月19日 - 1949年〈昭和24年〉12月14日)は、…

久恒 啓一
2年前
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「名言との対話」3月18日。吉川幸次郎「私などは大体『論語』によって生活といっても…

吉川 幸次郎(よしかわ こうじろう、1904年3月18日 - 1980年4月8日)は、日本の中国文学者。 …

久恒 啓一
2年前
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「名言との対話」3月17日。横光利一「新感覚派、新心理主義、行動主義、純粋小説論、…

横光 利一(よこみつ りいち、1898年〈明治31年〉3月17日 - 1947年〈昭和22年〉12月30日)は、…

久恒 啓一
2年前
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「名言との対話」3月16日。村山長挙「君(緒方竹虎)は生きて、私どもを導くことの何と大きく、死んで私どもに反省を与えることの何と多いことでしょうか」

村山 長挙(むらやま ながたか、旧字体:村山長擧、1894年3月16日 - 1977年8月7日)は、日本の新聞経営者。朝日新聞社社長、社主。 東京都府中市生まれ。京都帝大卒。1919年、朝日新聞初代社主の村山龍平の長女と結婚。婿養子となる。1920年取締役として朝日新聞に入社。1933年会長。1940年社長。主筆で声望の高かった緒方竹虎と不仲であった。1943年、「資本と経営の分離」で緒方を解任する。1944年緒方は退社し政治の世界へ向かった。敗戦後、朝日新聞の戦争責任を