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「名言との対話」3月24日。本多光太郎「産業は学問の道場なり」

本多 光太郎(ほんだ こうたろう、1870年3月24日(明治3年2月23日) - 1954年(昭和29年)2月12日)は、日本の物理学者、金属工学者(冶金学者)。

愛知県岡崎市生まれ。一高から東京帝大理科大学物理学科に入学、卒業。ドイツ、イギリス1922年、東北帝大金属材料研究所初代所長。1931年、東北帝大第6代総長(1940年まで)。1937年、第一回文化勲章を受章。1949年、東京理科大初代学長。1951年、文化功労者。

鉄鋼及び金属に関する冶金学・材料物性学の研究を、世界に先駆けた。磁性鋼であるKS鋼、新KS鋼の発明し、 「鉄の神様」「鉄鋼の父」などとも呼ばれ鉄鋼の世界的権威となる。1932年には日本人初のノーベル物理学賞の候補に挙がっていた。

本多光太郎は当時としては並外れて高い身長で五尺八寸(178センチ)で、あせらず、いそがず、坂道をのぼっていく牝牛のようであったらしい。「ナァ」という語を接尾につけるクセがあった。「待遇など問題でないわナァ」、外人にも同じだった。「This is ナァ a pen.」という具合だった。また外観などは無頓着だったから、本多総長は小使いさんに間違われたとのエピソードもある。

「仕事中の本多先生」という絵がある。本多光太郎の在職25周年記念の作品。安井曾太郎が描いた。「ネクタイが一寸曲がっていたりで先生(本多光太郎)自身は余りお気に入りではなかったそうだが、皆がいいというので(それはいいわナァ)となったとか」というエピソードも残っている。省略と誇張を重ね、戯画化にいたる直前で踏みとどまるというのが人物画で有名な安井曾太郎の作風だから描かれた本人よりも周囲が賛同する。

1922年のアインシュタイ博士の来日で、日本は空前の科学ブームになった。長岡半太郎、本多光太郎など高名な科学者が薫陶を受け、多くの少年たちが科学の道を志した。それが後のノーベル賞受賞者の輩出につながっていく。

「日本刀の科学」という本多光太郎の講演録をkindleで読んだ。鉄という物質に炭素を少量加えると鋼なる。炭素の量が多いものを鋳鉄と呼ぶ。日本刀はへ外側の硬い所には多い炭素量、内側の柔らかい所には少ない炭素量と、柏餅のようになっている。刀がよく切れてしかも柔軟性があって折れないためには硬軟2つの種類の鋼を使用することが必要である。

日本刀の鍛造の技術はすでに最高に達している。これ以上の進歩は材質の改善が必要だ。つまりニッケルコバルトなどの元素を加えた特殊鋼を用いる。鋼は焼入れによって硬度が3倍以上になるが、一方で脆くなる。そのため焼きもどし、粘り気を著しく増加させる。日本刀の生命は、切れ味と優美さにある。切れ味という実用性については技術的に解決できるが、優美さつまり芸術性については進歩はゆっくりしている。

そのあとに、「日本刀の造り方」という講演を俵国一さんが行っている。一つの鍛えた鋼と違った鍛え方をした数片を合わせて一本の日本刀ができるとし、焼き入れ後に土をかぶせることによって波紋ができる。この波紋が芸術性に関わるのである。

本多記念会と東北大学金属材料研究所には「5つの顔を持つ男」として紹介されている。成果を生み出すイノベーター、研究者を組織するオーガナイザー、無邪気なバーバリアン。学理とスキルを備えたアルチザン、後進の指導に熱心なインストラクターである。ここに本多光太郎の姿が映し出されてる。

「今日のことを今日できない者は、 明日のことがまた明日できないのです」「人間には待機の時代と断行の時代とがあります。潜伏の時代と飛躍の時代とがあります。じっと好機の到来を待つ間も大事ですが、ひとたび好機到来となれば機敏にチャンスをつかまえる気力がなくてはなりません」。色紙には「今が大切」「つとめてやむな」と揮毫していた。

東北大学工学部には「研究第一主義」の歴史がある。工学部の「工」という字は、上が自然現象、下が人間社会。それをつなぐのが工学という意味である。研究第一主義の旗を立てた長岡半太郎、KS鋼の本多光太郎、フェライトの武井武、八木アンテナの八木秀次、無装荷ケーブルの松前重義、、、。

実学の伝統のある東北大学の土台をつくった本多光太郎は、「産業は学問の道場なり」との含蓄のある名言を吐いている。現実の産業界の問題を解決しようと努力する過程で学問が磨かれていくのだ。学界と産業界の関係を見事に言い当てている。「本多スクール」で多くの俊秀を育てた。産学連携の場は、学問を志す者を鍛える道場である。

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