学びの主体は学習者

 「人は、馬を水まで連れて行くことはできるが、その馬に水を飲ませることはできない。You can take a horse to the water, but you can't make him drink.」と言われる。

 当たり前のことである。当たり前すぎて見過ごしてしまうほど当たり前の真実である。

 この当たり前の真実を人は、教育のことになると忘れてしまうようである。そして教育の名で、学ぶことを強制する人がなんと多いことか。

 学習が最も効果的に成立するのは、本人が学ぶ必要を感じて自分から学ぶときである。そのとき学びは楽しいものになり、乾いたのどにしみこむ水のように心身にしみわたる。

 学ぶことは本来、学ぶ本人が自分のために自分でするものである。そういう学びは本人のために役立ち、学ぶ本人に喜びと楽しみをもたらす。学ぶ本人が感じる必要感、それが学習の原動力である。

 なのに、学ぶ本人が必要感を感じる前に、教育する側が用意した学習を子供に押し付ける大人がなんと多いことか。

 押し付けられたらやる気がなえる。押し付けられたら楽しくなくなる。おいしいはずの食べ物も飲み物も、それを無理やり口に押し込まれたのではおいしくなくなる。

 教育の名で学習を強制することによって、子供から学びの楽しみを奪い、子供がもともと持っている自ら学ぶ力を発揮する機会を奪ってはならない。

 子供の学ぶ力を開いて伸ばすために教師がすべきことは、一人一人の興味・関心・能力にふさわしい学習材と活動メニューを複数用意し、それを学習者が選択して活動できるようにし、活動する一人一人に寄り添って支援することである。

 もう一つ大切な支援は、教師が用意した活動メニューを採用しない自由を認めるという心のゆとりである。

 そのゆとりから、事前に用意した評価規準で測れない想定外の学びも生まれる。

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