見出し画像

これもまたギリシア的なのだろうか?〜 ト・ディエシ

(6 min read)

Nto Diesi / De Fovamai To Avrio

ト・ディエシ(Nto Diesi)はギリシアの音楽デュオ・ユニット。作詞家で歌のペニー・ラマダニと、ギタリストで作曲家のディミトリ・ニティスという二人で編成されているみたいです。そのアルバム『De Fovamai To Avrio』(2019)がちょっぴり魅力的なんですよね。音楽的にギリシア色はとても薄く、というかほぼ聴きとれないですけれども、もっとユニヴァーサルなコンテンポラリー・ポップスとして佳作じゃないですかね。

ポップスというかポップ・フォークみたいな感触なんですけどね、このアルバム。地味で渋い感じで入ってきたなと思っていると、3曲目はレゲエですね。アクースティック・レゲエ。裏拍で刻みが入るレゲエのリズム・パターンだけ借用して、音楽的にはレゲエではないポップスに仕上がっています。聴きやすくていいですね。

ところでですね、ぼくは長年レゲエが苦手だったという話をずっと前にしたことがあるのは、音楽そのもののというよりも、ルーツ・レゲエにまとわりつくたくさんの言説が嫌いだっただけなんですよね。近年だったらフェラ・クティのアフロビートなんかにも同種の嫌な匂いを感じるんですけど、こう、なんというか硬派っていうか戦闘的というか社会派というか、ちょっと軽く流し聴いてはイカンみたいなことをいうファンや評論家が一部にいるでしょう。

ボブ・マーリーにしろだれにしろ、レゲエやアフロビートの音楽家が軽い感じでポップになったりスウィートになったりすると、もうそれだけで「裏切り」だ、とか「心変わり」だとか、そんなこと考えたり発言したりするひとたちのことが、ぼくはあんまり好きじゃありませんでした。ロックみたいなシリアス・ミュージックとレゲエの親和性が高いのは、そんなアティテュードも一因のような気がします。

ともかくそんなことで、レゲエ(とアフロビート)からは、もっと正確に言うとそれら音楽について語る一部のマジメなかたがたの発言からは、大きな距離を置いてきたんですよね。レゲエやアフロビートそのものが嫌いなわけじゃないと自分でわかっているのに、そんなかたがたのせいで音楽まで嫌いになりそうでしたから。

21世紀に入ったころからか、もっと前の1990年代からか、アフロビートのことはやっぱりよくわからないけど、レゲエはそのビート・スタイルだけちょこっと借用して自身の音楽の彩りとする音楽家が世界中にたくさん出てくるようになって、それでぼくも大きく安堵している次第です。やっぱりボブ・マーリー的な武闘派というか、社会派的にシリアスな姿勢をレゲエ・ビートに込めるっていう、一部のアフリカの音楽家とか、またアマジーグ・カテブ(グナーワ・ディフュジオン)とか、いるにはいますけどね。

話が大きくそれました。きょう話題にしたいギリシアのト・ディエシも、レゲエの裏拍で刻むビート・スタイルだけ借用しているのであって、レゲエ的社会派というわけでは決してありません。こういったレゲエの音楽効果はぼくも好きですね。3曲目だけじゃなく、実は4曲目も軽いレゲエ・ビートがそこはかとなく効いています。アルバムでレゲエ・ビートを使ってあるのはこの二曲だけ。ただたんにおもしろいポップ・ビートということでレゲエ使っちゃいけませんか?

5曲目以後も、やっぱり仄暗いっていうかどんよりとした曇天を連想させるような曲調のものが続いているんですけど、フォーキーだったりロック・チューンっぽかったりして、思うに地中海的っていうか、そう、アルジェリアの音楽なんかにもこういった感じがときたま聴きとれますが(スアド・マシ)、ギリシアとかバルカン半島的なムードともひょっとしたら言えるのかもしれないですね。

音楽的にはこのデュオの作曲者側のディミトリ・ニティスがかなりサウンドを支配しているみたいで、楽器もギターだけでなくトレスやマンドリンをやったり、またアレンジャーとして、チェロ、アコーディオン、カズー、ホーン陣ほかの配置もツボを得たスッキリとした感触で曲のよさを包み込むという、そういう仕事をしているなと思います。

なぜか心に残る、くりかえし聴きたくなる、そんな不思議な魅力を持ったト・ディエシのアルバム『De Fovamai To Avrio』。どうしてそう感じるのか、ちょっと考えてみたかったんですけど、きょうはどうもうまくいかなかったなと思います。ギリシア要素はこの音楽にはないと言いながら、やっぱりギリシア的なのか?とも思えたり。

(written 2020.11.27)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?