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学校の宿題はやらなくていい(再掲)

(6 min read)

学校の夏休みも終盤ということで、そうじゃなくても一年中ずっと言えることなんでいつ読んでいただいてもいいですが、学校で教師が生徒に課す宿題なんて、やってもやらなくてもどっちでもいいんですよ。ストレスに感じるならやらないでほしい。

現実問題、宿題をやっていかなくたって不利益はなにも起きません。違法じゃないし、倫理的に問題でもなく、逮捕されないし、「ほんとうに」なんにも起こらない。ただちょっと教師に「なんでおまえはやらんのか」とかブツクサ言われるだけ。成績が低下するか?というと実はそれもないので、要するになにもない。

 それだったらイヤなものを無理してやることないんですよ。このことを、長年現場の学校教師だったぼくは声を大にして言いたい。宿題やらないのは悪いことじゃない。

むしろムリヤリの宿題は生徒の心身をしばる負担になるだけで、だからつまり教育的効果なんてありません。このことを学校教師自身もこども時分に身をもって痛感していたはずなのに、自分が教師の立場になった途端に命令権でも得たかのようにふるまうのはおかしいでしょうよ。

そう、教師なんて権力じゃないし、生徒にあれこれやらせる強制力なんてちっともないのです。親にだってないんですから、ましてや他人をや。

宿題をやらず教師に小言をもらっても、そんなもん「はい、すみません」と頭上を通り抜けていくように右から左へと流しておけばそれでいい。性格の悪い教師だと職員室などで長時間拘束し(そんな権利も本来ないわけですが)いつまでもごちゃごちゃ言うかもしれませんが、生徒側に非はありません。

そもそも学びは楽しくなくちゃ、やりたいと思ってすすんでやるんじゃなくちゃ、効果ないです。ムリヤリの強制はなにごとも逆効果。そして、生徒・学生時代はなぜ学んだほうがいいのか、どういういいことがあるか、なかなか納得理解できないもの。

もちろん勉強するという営為じたいが楽しくて快感でやめられないという人間(が実はそこそこいて、学者になったりする)はほっといてもやるんですが、生徒・学生のマジョリティはそうじゃないですからね。遊べるもんなら遊びたいと思っているでしょう。

それでいいとぼくは思うんです。好きなこと、やりたいことをやればいい。それが野球だったらそれでOKだし、野球ばっかりやった結果イチローや大谷翔平みたいになれるかもしれないんですからね。

そういえば思い出しました。イチローは小学生のころ、だれにもやれと言われていないのに自分がやりたくて、すすんで毎日八時間ものバッティング練習を欠かさなかったそうです。好きでやり放題やった結果があの米メイジャー・リーグの歴史にも名を残すほどの存在だというわけです。

学校の宿題というか勉強、学習もそんなふうじゃなくちゃ。学習者みずから課題を見つけ、なにがわからないのか、そもそもそれがわかるようにするためにはなにを使ってどこをどう調べればいいか、という根本からすすんで自分で興味をもって見つけていくようにする環境づくり、背中を押すことこそ、教師の仕事です。

それなのに、この問題集のここからここまで解いてこい!みたいな押し付けじゃ、やりたい気は起きませんし、取り組まなくちゃと思うだけでそもそも苦痛で、であるがゆえに学力向上には結びつきえません。これが「宿題」というものの実態でしょう。

このまま変革できないなら即刻学校から宿題を廃絶追放したほうがいい。

それができないから(上司から言われたり文科省の指導があったりで)、生徒のほうからすすんで放棄すればいいと言っているんです。やりたい生徒だけやったらいいんで、全員一律の同一課題強制は軍隊的で無意味かつ理不尽。放棄しても困ることはなにもないし、自分が読みたい本を楽しくどんどん読んだりしたほうがずっと滋養になります。

小学校から高校まで(大学と大学院では宿題出なかった)、学期中でも長期休暇でも、いっさいの宿題をまったくやらずにすごし教師の小言を無視してきて、それでみずから宿題を出さない教師になったぼくの痛切な実感です。

 (written 2022.7.24)

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