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新しい月とその奥にあるもの

こんばんは。
8月が終わり9月がやってきて空気が変わりましたね。
パンデミックと4年に一度の祭典(一年越しの)……
前代未聞の夏、でした。
といってもうちは、娘の園が休園判断したために
夏休みが終わりません。

単純に、自分の時間を確保しにくい、子どもの長期休み延長に
ショックを受け、揺さぶられながら、
それでも今日、確かに新しい月を迎えた自分が
以前よりも、たくましく(自分自身との一体感を持って)
あれることを感じます。

あるいみ予定通り、新しい始まりを迎えた人も
予想がどうあれ、始まれなかった人も
前代未聞の8月が明ければ、それぞれが初めての9月の入り口。

例えばそんなふうな視点。

状況、属性、性別、選択、環境……
さまざまな違いを超えて、かたちを超えて、
その奥にある「やっぱり同じ」なことに、
意志を持って触れていく。

例えばそんなふうな視点。

去年の3月の、休校休園や登園自粛で
どうしようもない不安を感じながらも考える時間を作れない感じ、
そこで摩耗していってしまうあの感じを
ふと思い出しながらも
あのときと違うものを
自分の真ん中でちゃんと気づいていてあげられること。

例えばそんなふうな視点です。


こうして整理してみたことで
今回の状況(夏休み延長)によって、
昨年のあの長かった休暇による「傷」を
ちゃんと終わりにできる機会を得たのかもしれません。

本当だったら2学期の初日だった今日
娘と自主的に園まで歩いて行って(1時間超かかった!)、
そのまま、園での散歩コースをまわり外遊びを満喫しました。

それは、ここから未来に向けて、
自分自身で歩いていくという表現だったし
繋がりをあきらめないという意図だったし
「help!」でもあったろうし、そしてそれが
橋をかけるということだったんだろうと思います。

「助けて」ということは、恥ずかしいことじゃない。
弱い人があげる声ではなくて
それは前に進もうという意志があげさせる声。

この夏の間中ずっとひりひり感じていたことが、
お盆過ぎに弾け、そこで手にした言葉は
「選択は、そのひとのすべてじゃない」ということでした。
選択は、結果は、そのとき咲いたひとつの表現だけど
それをさせた願いは、
そうそうみんな違うもんじゃない。
そのことも、今ようやく、力みなしに発信できる気がします。

あともうひとつ。
『マザリング』という本を読んでいることもあって思うのですが
この投稿以上に、さっき配信したポッドキャストは
「お母さん」にむけて喋っていますが
やっぱりそれも、その人の選択や生きてきた流れによってある
今のかたちにすぎないともいえて
ただ、ひとつの属性を深く深く体験することで刻まれる
狂おしいほどの時間やそこから見えてくるものは確かにあって
それこそ人生で
で、そこから声を出してみたら、それは、なんだ
ひとつの属性や姿かたちを超えた、
ひろいところに向かって飛んでいけるものだったりするね。

世の中のお母さんたち、
この9月の始まりに自分をケアして。
自分をケアするやり方も、求め方も忘れちゃった
そんなふうに思うかもしれない。
でもまずは、ひとつ、傷ついたことを認めて、抱きしめること。
一緒にいたらちゃんと終われる。
そしてそれができたら、「自分をいじめない」ことがきっと始まる。
自分をいじめない、自分で責めない、を取り戻したらきっと、
昨日よりも今日、わたしはわたしに優しくなれる。
わたしはわたしと一体感をもって自分に安心していられる。

どんな9月をむかえている人誰もが
その違いを超えたその奥で、ひとつ、
今よりもずっとそのまんまでいられる新しい時間に向かって
歩いて行けますように。


わたしの創作活動をサポートしてくださる方がありましたらぜひよろしくおねがいいたします。励みとし、精進します。