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#父の過ごした病院 薬剤師の私が感じたこと

今回は、父の話。
父の誕生日だったから、父のことをぼんやりと考えていたら、
父が亡くなる頃のことが思い出されてきた。

父は、認知症で大腸がんだった。
私が勤めている病院で、物忘れ外来も循環器内科も受診していた。
そして、大腸がんの手術を受けた。
退院後は、定期受診をしながら、デイサービスに通いつつ、
それはそれなりに楽しく過ごしているようだったけど、
ある年の12月、腸閉塞を起こして、
私の勤める病院に入院することになった。
主治医から、最悪、年は越せないかもしれないと言われた。
母と私は、
「いよいよお別れの日が近づいてきていることを覚悟しなくては、、、」
と思った。
父の病状から考えて、
急性期病院で入院を続けるより、緩和病棟のある病院の方がいいと思って、
転院を希望したけれど、近隣では空きがなかった。
比較的のんびりゆっくりさせてもらえる地域連携の病院に転院することになった。
私が通った学校がすぐそばにあるから、
もしかして病室から見えるのではないかと言う思いがあった。
父が、病室から私の通った学校を見て、
何か思い出すことがあればいいなと願った。

思っていた通り、病室からは校舎も校庭も見えた。
父は校舎や校庭を見ても、思い出すことはなかったけれども、
毎日看病に行っていた母は懐かしそうに見ていた。

時々、母とは校舎を見ながら懐かしい話をして時を過ごした。
私は、母と過ごす穏やかな時間が嬉しかった。
私も出来る限り毎日、父の顔そして母の顔を見たいと思って、
仕事帰りに病院に寄ってから帰宅するようにした。

転院して間もないころのこと。
仕事帰りに寄ったら、
父は、髪の毛を洗ってもらって、整髪してもらって、
ひげもきれいに剃ってもらってて、とてもさっぱりとしていた。
「すごいさっぱりしてるね。」って声をかえたら、
すごくうれしそうに「男前になったやろ。」って冗談ぽく言った。
力のない声だけど、今の父にできるであろう最高の笑顔で。。。

母とは会えない日も多かったけれど、父に声をかけると、
父はわかっているのか分かっていないのか、
ボケているのか、
私に気遣ってくれているのか、
そんなことはわからないけれど、
「来てくれたんか、お疲れさん。」
「もう晩酌済んだで、お母さんは向こうのの部屋に居るやろう。

なんてことを話してくれた。 

入院していることをちゃんと理解できていない父、、、。

口からは何も入れてないのに、
大好きなお酒をいただき、おいしいご飯を食べてると思っている父、、、。

疼痛コントロールがうまくいってるから話ができる。。
父にマッチした治療がなされ、看護がなされているからこそであろう。
悲しくて、つらくて、切なくて、ありがたくて、
複雑な気持ちでいっぱいだった。
私のことを認識してくれて、名前を呼んでくれて、
少しでも話してくれるのがうれしかった。


国は病院の機能分化を進めているから、私は、日ごろの業務の中で、
「機能分化のなか、急性期病院の薬剤師としてうんぬん、かんぬん」
なんてえらそうに気やすく言っていたけれど、何にも分かってない。
私自身ががん患者の家族として、
「7対1看護配置」「10対1看護配置」「13対1看護配置」を味わった。
病院の役割分担を感じて、少しは理解することが出来たと思う。



娘としてありがたかったし、薬剤師としてもありがたかった。

父の人生を終えた病院。
最期の時まで過ごした病院。
感謝。感謝。

私は感謝してもらえることできているだろうか、、、。
私は、今日も急性期病院の薬剤師として働いている。
父のおかげで、改めて”頑張っていこう”という気持ちになった。

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