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ベートーヴェン時代の著作権 楽聖はどうやって金をかせいだ?

連載『コピーライトラウンジ』 (第7回  2015年5月)
月刊「パテント」(日本弁理士会)から転載(全14回)

ベートーヴェン(1770-1827)は貧乏だったとよく言われます。

しかし、評伝を読んでいると、実はそうでもないような気がします。確かに、手元にお金はあまりなかったかもしれないが、少なくともかせぎは良かったようです。

生涯独身だったベートーヴェンは甥のカールの養育のためにかなりのお金を使いました。また、引っ越し魔でもありました。彼の何軒かの住居は、今では「ベートーヴェンハウス」としてウィーンの観光名所になっています。

結構ビジネスの才覚もあったようで、自作を出版社に売るときも交渉がうまかったらしい。

こういう人の「貧乏」は私たちのいうそれとはちょっと違うように思います。今日のような著作権ルールがない時代に、彼はどうやって金をかせいだのでしょうか。


◆史上初のフリーランス作曲家

ベートーヴェンの少し前のハイドン(1732-1809)やモーツァルト(1756-91)の時代では、音楽家は王侯貴族や教会に身分を保障してもらっていました。しかし、音楽家の地位は低く、モーツァルトでさえ食事を取るときは貴族とは別の台所でした。

作られる曲も典礼や儀式や晩餐会のためのものがほとんどです。今日のサラリーマンのように、上司の命令を受けて仕事をしていたと考えると理解しやすいかもしれません。

ところがベートーヴェンは「音楽は儀式や典礼イベントに寄生するものであってはならぬ」という思いを抱いていました。有り体に言えば、音楽は音楽だけで勝負するという「音楽=芸術」を目指した最初の作曲家だったのです。

生きていくために、自分でかせぐ必要がありました。史上初のフリーランス作曲家がベートーヴェンといえるかもしれません。

彼が生きた時代は貴族など上流階級が支配した時代から市民社会への転換期という時代背景とも関係があります。

では、ベートーヴェンはどうやって収入を得ていたのでしょうか。

まず、一番手堅かったのは、貴族やその師弟にピアノを教えることです。ピアノの名手として知られていたベートーヴェンのレッスン料は平均よりもずっと高かったと言われています。

余談ですが、貴族のお嬢さんにピアノの手ほどきをしていたため、身分違いによる成就しなかった恋物語も残されています。

◆交響曲の値段

二番目に、楽譜の出版による収入がありました。

ベートーヴェンはピアニストとしてウィーンの人気者でしたから、出版社は彼の名声を利用して争うように出版しました。ベートーヴェンも、出版活動を通じて知名度が高くなることを喜んでいました。

そこで気になるのが、ベートーヴェンの音楽の値段です。

例えば、交響曲第五番と第六番、それにハ長調のミサ曲、第三番のチェロソナタの出版に際し、600フロリンが出版社から作曲家に支払われた記録が残っています(音楽学者の西原稔氏は1フロリンを1万円程度と推測しています(「ベートーヴェンの生きた社会と音楽」、『ベートーヴェンは凄い2014年』演奏会パンフレット、41ページ)。

作品番号が付されたベートーヴェンの曲は130を超えますので、ベートーヴェンが出版することで得られた総収入を想像する時の参考になりそうです(もちろん、大がかりな交響曲や協奏曲とピアノソナタとは値段の点で同列には論じられません)。

三番目に、ベートーヴェンの収入を考える上でもっと重要なのは、パトロンの存在です。

彼は貴族に支配されませんでしたが、ウィーンではまだ貴族の存在が大きく、芸術家を率先して支援する風潮がありました。ベートーヴェンにも、このようなパトロンが何人もついており、「年金」というかたちで、貴族から財政支援を受けていました。

おもしろいことに、作曲家は自作を貴族など上流階級の者に「献呈」する習わしがあり、献呈を受けた貴族は返礼として「献呈料」としてお金を作曲家に支払うことになっていました。

ベートーヴェンの作曲リストを見ると、多くの曲に献呈先がつけられています。西原氏の推測によると、ベートーヴェンの場合、交響曲一曲あたりの献呈料は500フロリン(つまり約500万円)が相場だったそうです。

◆著作権のなかった時代に

献呈された作品は、一定期間、献呈先(多くは貴族)が独占的に使用権を持つのが通例だったようです。貴族は、「芸術家を支援している」ということをアピールし、社会的な尊敬を集めるという効用がありました。

作曲家は献呈しながら、他方で出版社に売り込んでいたようです。著作権がなかった時代の「商品としての音楽」の地位を示しているように思えます。

当時は、出版とは権利の買い取り方式を意味しました。つまり、ひとたび出版されれば、出版社に権利が譲渡されたのです。

けれど、法整備が進んでいないため、欧州では国境を越えて海賊版が跋扈したことは容易に想像できます。

海賊版が出回るのを恐れたのか、ショパン(1810-49)は楽譜をドイツやフランス、イギリスで同時に出版したと言われます。

国境を越えた著作権の保護ルールである「ベルヌ条約」が作成されたのは1886年です。しかも、当初は文学や美術が保護対象でした。音楽著作権が整備されるのは、さらにその後になります。

ベートーヴェンの財布事情について調べ始めると、著作権の黎明期の話に行きそうです。
(了)

みやたけひさよし 東京理科大学大学院イノベーション研究科教授。日本音楽著作権協会(JASRAC)理事。共同通信社記者・デスク、横浜国立大学教授を経2012年から理科大に。著書『知的財産と創造性」(みすず書房)など。

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