【短編小説】ちょうちょ

 立花さんちにいる白い影の正体は、幽霊なんかじゃなかったけれど、ミチルはそれに気づく前に、ヒィッとさけんで気を失った。
 手に茶封筒をもったまま。
 この茶封筒は、きょう学校を欠席した立花さんへの届けもので、中には宿題やお知らせのプリントなんかがはいっている。
 でも、ほんとはミチルじゃなく、立花さんちの近所に住んでいる滝本くんが届けるはずだった。それなのに滝本くんは、
「ごめんっ、これたのむ」
 帰りの会がおわるなり、前の席からミチルに押しつけてきた。
「なんでわたしが」
 ミチルが押し返そうとすると、
「佐野は保健委員だろ」
 滝本くんはフフンと鼻をならす。
「そんなの関係ない。滝本くんがさっき先生から頼まれたんでしょ」
 ミチルがいい返すと、滝本くんはごまかすようにハハッと笑い、それから、きゅうに神妙な顔つきになって声をひそめてこういった。
「それが、おれ、白い影見ちゃってさ」
「白い影?」
「ああ、この前、立花んちで」
 滝本くんは、さらに声を落とす。
「おれ、この前もさ、立花んちにプリントを届けにいったんだ。で、ポストにいれようとしたらなんか視線を感じて、それでふり返ったら二階の窓辺にいたんだよ。白い影が。じっとおれのこと見てたんだ。あれ、ぜったい幽霊だっ」
 滝本くんはそういうなり、ウヒャーッと声を上げながら教室を飛び出していった。

 ミチルはしぶしぶ立花さんちに向かった。
 おなじ住宅街に住んでいるから場所はわかっているけれど、ミチルの家から立花さんちまではそこそこの距離がある。けっこうな遠回り。
「はぁ」
 ミチルはため息をつきながら、住宅街をだらだらと歩いた。遊歩道に植わった桜は満開をすぎ、道には茶色く変色した花びらがこびりついている。
 遊歩道をぬけて、ようやく立花さんちにたどり着いた。まわりに建ちならぶ他の家とにたような、なんのへんてつもない二階建ての家。
 ミチルはちらっと二階に目をやった。どの窓もカーテンがしめ切られていて、白い影なんてどこにもいない。
 もちろん、滝本くんのあんな話、信じてはいなかった。でも、はっきりいないとわかると、ますます腹が立ってくる。ぜったい、届けるのがめんどうで押しつけてきたにちがいない。
「あした、なんていってやろう」
 ぶつぶついいながら、茶封筒を玄関脇のポストにいれようとした。
 そのとき、ふと立花さんのことが頭をよぎった。
 四月の中旬から学校を休みだして、かれこれ一週間になる。クラスのだれかが風邪だっていってたけど……。
 ミチルは茶封筒をひっこめて、玄関のチャイムを押してみた。
 いくらまってもドアはあかない。
 しょうがなく、ふたたび茶封筒をポストにいれようとした。
「あ、佐野さん」
 上の方から、かすかに声がした。
 見上げると、二階の窓辺に白い影が立っていた。
 ミチルはヒィッとさけんで気を失った。
 
 目を覚ますと、そこは見知らぬリビングだった。ミチルは横たわっていたソファから起き上がり、あたりを見回した。きちんと整頓された部屋は、しんと静まり返っている。
 ここ、どこだろ……。
 ミチルはぼんやりした頭で考えた。
「よかった、気がついたんだ」
 ふいに声がした。
 ミチルはびくっとして顔を向けた。と、どうじに、また気を失いそうになる。
 リビングに白い影が立っている。
「ヒィィィッ!」
 ミチルは頭を抱えて、ソファのすみにちぢこまった。
「ゆゆゆゆ幽霊、幽霊、幽霊……!」
「あの、幽霊じゃないの」
 白い影の声がする。
「どどどどどうしよう……ほんとに幽霊、幽霊、幽霊……!」
「ほんとにね、幽霊じゃないんだよ」
 白い影はくり返す。
「ゆゆゆゆ幽霊、幽霊、幽霊じゃない……ほんとに幽霊じゃ……」
 ない?
 ミチルは、はたと冷静になった。
 幽霊じゃ、ない?
 おそるおそる顔を上げた。
 あらためて見てみると、その白い影は輪郭がはっきりしていて、「影」というより「物体」だった。そして、その「物体」は、頭のてっぺんから足の爪先まで、すきまなく白いなにかで、ぐるぐるとおおわれている――。
「ミイラ!?」
 ミチルがさけぶと、白い物体は首を横にふる。
「で、でも、そのぐるぐるまきのは……」
 すると白い物体は、ちょっと首をかたむけて、いった。
「繭」
「マユ?」
「うん。たぶん、繭」
「たぶん、マユ……」
 ミチルはひきよせられるようにふらふらと、白い物体に近づいた。よく見ると、たしかに包帯ではなく細い糸のようだった。そっとふれると、少しひんやりしている。
「ね?」
 繭の向こうで、ささやくような声がした。
 そのか細い声は女の子のよう。
 ならぶと、背丈はミチルとあまり変わらない。
「そうだ。プリント届けてくれて、ありがとう」
 白い物体が、テーブルに置いてある茶封筒を指差した。
 ミチルはようやく、この繭におおわれているのが立花さんだと気がついた。

 立花さんの話によると、ちょうど一週間前の月曜の朝目を覚ますと、立花さんはこの姿になっていたという。なんの前ぶれもなく、とうとつに。
「え、きゅうにこんな……?」
 ミチルは、立花さんが出してくれたチョコチップクッキーに伸ばしていた手をとめた。
「うん。だから学校、休んでるんだ」
 ミチルとならんで、ソファに座っていた立花さんはうなずいた。
「でも……へいきなの?」
「うん、へいき。佐野さんをここまで運べるくらい元気だよ」
 どうってことないように、立花さんはいう。
「あと、この状態だと、なんにも食べなくていいみたい。……あ、だけど、そもそも、これじゃなんにも口にできないんだけど」
 そういって、ちょっとおかしそうに繭の上から口のあたりをさわる。
 ミチルは、立花さんとチョコチップクッキーを見くらべた。
 なんにも食べなくていい? そんなの、ほんとうにありえるんだろうか。いや、そんなこといったら、人間が繭におおわれていることの方が……。
 ミチルはなんだか頭がくらくらしてきた。
「そ、そうだ、お父さんとお母さんは?」
「二人とも仕事」
「えっと、そういう意味じゃなくって……二人はなんて?」
「あー」
 立花さんはいっしゅん間を置いていった。
「二人には、これが見えないみたい」
 ミチルは思わず目を見ひらいた。
「こんなにぐるぐるなのに?」
 立花さんはコクリとうなずく。
「たぶん、お父さんもお母さんも、わたしが学校にいきたくないだけだって、思ってるんじゃないかな。しばらくそっとしておこうって、二人で話してたのきいたんだ。あと、自分の殻にとじこもる、なんていってたけど……」
 立花さんは、短いため息をついた。
「殻じゃなくて、繭なのに」

 立花さんは、いったいどうしてあんな姿になったのか?
 帰り道、ミチルは住宅街を歩きながら考える。
 人間が繭におおわれるなんて、幽霊よりもっと信じられない。
 だけど、当の立花さんはあまり気にしていないようだった。むしろ前より元気そうに見えた。
 立花さんとは、この春六年生に進級して、はじめておなじクラスになった。色が白くて、ひょろっとした子で、休み時間はたいてい教室で本を読んでいた。だれかに話しかけられると、いつもちょっと困ったようにこげ茶色の瞳をふせていた。
 そういえば、立花さんとこんなにしゃべったのはじめてだ――。
 ミチルは、なんとなく不思議な気持ちになった。
 ふいに風が吹き、遊歩道の桜がゆれた。
 それを合図にしたように、どこからかピアノの音色がきこえてきた。
 ミチルは足をゆるめて、耳をすました。
「あ、ちょうちょ」
 小さくつぶやいた。
 練習しはじめたばかりなのか、何度もつっかえながら進んでいくその曲は、ミチルもよく知っている童謡の『ちょうちょ』だった。
 へたくそだけれど、春の日差しみたいにキラキラと明るい。そんなピアノの音色を耳にしているうちに、ミチルはハッとした。
「そうだ、わかった!」 
 思わずさけんだ。
 わかった! わかった! 立花さんがあんな姿になったのは――。
 
「な、いただろ? 幽霊」
 翌朝、教室でミチルをひと目見るなり、滝本くんが話しかけてきた。
 けれど、ミチルはそれにはこたえず、そっけなくいった。
「プリント、きょうもわたしが届けるから」
「へ? どうしたんだよ、きゅうに」
 滝本くんはいぶかしげな顔をする。
「べつにいいでしょ、わたし保健委員だし」
 そうして学校がおわると、ミチルは茶封筒をもって、まっすぐ立花さんちへ向かった。

「ありがとう、佐野さん」
 玄関の上がり口で、茶封筒を受け取る立花さんは、きのうと変わらず全身くまなく繭でつつまれていた。
 窓から差しこむ光で、糸の一本一本が白く輝き、まるで繭全体がぼんやりと発光しているように見える。
「あのね、立花さん――」
 胸を高鳴らせながら、ミチルはゆっくりと口をひらいた。
「わたし思ったんだけど――」
 きのうの帰り道でのことがよみがえる。
「立花さんがその姿になったのは――」
 ミチルはそこで小さく深呼吸した。
「ちょうちょになるためじゃないかな?」
「ちょうちょ?」
 立花さんは首をかしげた。
「わたし、人間から蝶になるの?」
 ミチルはあせった。
「あ、えっと、これはたとえで、ほら、いも虫が蝶になるみたいに、立花さんは、新しい立花さんに生まれ変わるんだよ!」
 そのしゅんかん、ミチルの頭の中は、クラスのみんなに囲まれて、はじけるように笑う立花さんのイメージでいっぱいになった。
 ああ、なんてすばらしいんだろう!
「でも……」
 立花さんはぽつりといった。
「でも?」
「うん、でも、繭から羽化するのって蝶より蛾のイメージだな」
「蛾?」
「とくにカイコ」
「カイコ……」
 ミチルはあぜんとした。カイコじゃ、ぜんぜんイメージとちがう。
 けれど立花さんは、そんなミチルをよそにして、たんたんとしゃべる。
「そうだ、羽化したカイコってね、けっこうかわいいんだよ。部屋に図鑑あるんだけど、よかったら見る?」
 ミチルはもうなにもいえず、ふらふらと立花さんのあとについて二階に上がった。

 立花さんの部屋は、意外と雑然としていた。勉強机の上には、解答欄がうまった、きのうの宿題の算数のプリントがちらばっている。
 窓のカーテンはしめ切られていた。きのう立花さんは、きっとこのカーテンをあけてミチルに声をかけたのだ。
 立花さんは本棚から昆虫図鑑を取り出すと、ローテーブルの上に置いて、ページをめくった。
「ほら」
 ミチルはいわれるままに、立花さんが指差したところをのぞいた。
 カイコの成虫の写真がのっている。
 ぷっくりした胴体は、白くて短いふわふわした毛におおわれていた。その胴体から、小さな白い羽が生えている。目は黒くて大きい。くし形の触覚は、どことなくウサギの耳ににている。
 たしかに、けっこうかわいいかもしれない。
「じゃあ、カイコでもいいよ」
 ミチルはしぶしぶみとめた。
「ちょうちょも、カイコもたとえだもん。とにかく立花さんは、その繭から出てきたら、新しい立花さんになってるんだよ」
 ムキになってそういうと、繭の向こうからかすかに笑う声がした。

 夜、ミチルはベッドに横になって、立花さんから借りた昆虫図鑑をひらいた。カイコの解説は数行ほど。そこには、カイコが羽化するのは繭になって十日から十四日後くらいだと書いてある。
 じゃあ、あと一週間もすれば、立花さんはあの繭から出てくるはず――。
 ミチルの胸はふたたび高鳴った。

 それから一週間、ミチルは立花さんに茶封筒を届けつづけた。しかしミチルが期待したような変化は起こらず、立花さんはあいかわらず繭におおわれたままだった。
 人間だからもっと時間がかかるのかも。そう思って、ミチルはそれからも通いつづけた。そのうち学校がない日でも、家にいくようになっていた。
「あ、佐野さん」
 立花さんはいつもそういって、あたりまえのようにミチルを部屋に上げてくれた。そして、二人でとりとめのない話しをした。
 立花さんは、本の中でもとくに図鑑や伝記が好きだった。運動をするのは苦手だけれど、大相撲は毎場所かかさずテレビで観ているらしい。そして給食のメニューの中で、ワカメごはんが一番きらいだった。
「わたしもわたしもにおいがダメ!」
 ミチルが思わず意気ごむと、
「うん、うん、あのにおい」
 と、立花さんは何度もうなずいた。
 学校での印象とちがって、立花さんはわりとおしゃべりだった。
 立花さんが学校を休んでいることは、もうクラスのだれも気にとめなくなっていた。

 そうして四月がおわり、すぐに五月の連休がはじまった。
「あのね、最近、カイコの画像を集めてるんだ」
 ミチルがいつものように部屋に上がって、ローテーブルの前に座ると、立花さんはそういってスマホの画面を見せてくれた。
 そこには羽化したカイコの写真が何枚もならんでいた。
「あ、これいいね」
 ミチルは一枚の写真をタップした。
 人の指先に、ちょこんととまったカイコの写真。
「うん、かわいい」
 立花さんはその白い指先で、そっと写真を拡大する。
 そのときドアをノックする音がして、女の人の声がきこえた。
「いちご買ってきたんだけど、お友達とどう?」
 あ、お母さん、と立花さんはつぶやいた。
「ありがとう、そこに置いといて」
 と、ドアに向かって少し声を張る。
 そして廊下から女の人の気配がしなくなると、部屋を出て、おぼんにのったいちごをもってもどってきた。
「お母さん、きょうは仕事が休みで」
 ローテーブルにいちごを置きながら、立花さんはいう。
 立花さんのお母さんの声は、おだやかで、やさしそうな感じがした。どこかひっそりしたところが、立花さんとにていた。でも――、
「繭、ほんとに見えてないんだね」
 ミチルはぽつりといった。
 いちごは二人分、べつべつの器にもりつけられている。
 立花さんは小さく、うん、とうなずいた。
「よかったら、わたしの分も食べて。じつはね、食べ物をこっそり捨てるの、けっこうたいへんで」
 ミチルはフォークを手に取ると、両方の器から、ひとつずついちごを食べてみた。
 味が、よくわからない。けど、たぶん、おいしい。飲みこんで、もうひとつずつ口に運ぶ。
 ミチルのななめ向かいに座った立花さんが、じっとこっちを見ている。目元がかくれているから、ほんとうに見ているかどうかは、はっきりとわからないけれど、なんとなくそんな感じがする。
 全身を繭におおわれた真っ白な立花さん。
 はじめて見たときは、気を失うほどおどろいたのに、今ではもうすっかり見慣れてしまった。
 立花さんは、もう三週間以上この姿のままだ。
「そういえば、気配とかないの?」
 ミチルは、なんとなくきいてみた。
「気配?」
「そう、生まれ変わるような」
 ミチルはそういって、またいちごを口に運ぶ。
 立花さんは、なにかを確認するように押しだまった。
 十秒。二十秒。三十秒。
 それから、ゆっくり首を横にふった。
「そっかぁ」
 ミチルはフォークを置いた。
「……その中、どうなってるんだろ?」
 ひとりごとのようにつぶやいた。
 まだ羽化の準備中? それとも、うまく出られないだけ?
 万が一ずっとこのままだったら、立花さんはどうするつもりなんだろう……。
 と、とつぜん立花さんが口をひらいた。
「そうだ、ちょっと見てみる?」
「え?」
 ミチルは思わずきき返した。見てみる?
「でも、どうやって……」
 立花さんはスッと立ち上がった。
 そして、勉強机の引き出しからハサミを取り出したかと思うと、いきなり左腕の繭を切ろうとした。
「あぶないよ!」
 ミチルはぎょっとしてさけんだ。
 けれど立花さんは、やっぱりこっちかな、と今度はお腹にハサミを向ける。
 ミチルは気が動転して口走った。
「わたしがやる!」
「はい」
 立花さんは、あっさりハサミを差し出した。
 前からちょっと思っていたけれど、立花さんはみょうに大胆なところがある。
 ミチルはしかたなくハサミを受け取った。
 自分からやるといった手前、断れない。だけど、お腹なんてあぶなすぎる。
 すうっと息をはき、立花さんの腕にゆっくりとハサミを近づけていった。
 刃の先が、繭にふれる。
 そのとき、ふと、こんな考えが頭をよぎる。
 そうだ、もしうまく出口を作れたら、立花さんは羽化できるかも――。
 クラスのみんなに囲まれて、はじけるように笑う立花さんのキラキラしたイメージがよみがえり、ミチルの胸はドクドクと高鳴った。
「そうだ、羽化したカイコってね」
 とうとつに立花さんがいった。
「羽があっても飛べなくて」
「え?」
「口が退化してて、なんにも食べられなくて」
「…………」
「十日くらいで死んじゃうって」
 ミチルの手がかたまった。
「図鑑にはそんなこと……」
「うん、あの図鑑、カイコの解説が少なかったでしょ、だからスマホで調べてみたの。人間がね、カイコから絹をたくさん採取したいから、そんなふうに変えたみたい」
 ミチルのハサミをもつ手がふるえだした。
「どうしたの? 佐野さん」
 立花さんは、ミチルの顔をのぞくように首をかしげる。
 その真っ白な顔が、ミチルに近づく。
 今、繭の向こうで、立花さんはどんな表情をしてるのだろう。
わからない。ぜんぜんわからない。
 目の前にいるはずの立花さんが、遠くに感じる。
「あの、えっと……」
 ふるえがどんどんはげしくなる。ハサミをはなそうとしても指が思うように動かない。ミチルはたまらず、反対の手でハサミをはたき落とした。
 指先が立花さんの腕にあたった。
 立花さんはいっしゅんビクッとしたけれど、ミチルにはそれを気にする余裕もない。
「わたし、帰る」
 逃げるように部屋を出た。

 ミチルは脇目もふらず、遊歩道を早足で進んだ。
 でも、立花さんはカイコじゃないし――。
 自分にいいきかせようとしたけれどダメだった。
 いったい、わたしは一人でなにを期待していたんだろう?
 キラキラした立花さんのイメージは消えさった。こわい気持ちと恥ずかしい気持ちが、ぐちゃぐちゃにまざりあって満ちていく。
「なんだ? これ」
 後ろで声がした。
 とっさにふり返ると、滝本くんが道の真ん中にしゃがみこんでいる。
 その足元には、ミチルが今歩いてきた道のりをしめすように、一筋の白い糸のような物がまっすぐ伸びていた。そして、それが途切れることなくミチルの方につづいている。
 全身からいっきに血の気がひいた。
 さっき立花さんにあたった手に、すばやく目をやった。指先にその糸のはしがからまっている。繭の糸。
「お、佐野じゃん」
 滝本くんが顔を上げた。
「なんなの? これ」
 道に伸びた糸にさわろうとした。
「だめ!」
 ミチルはさけんだ。
「さわっちゃだめ!」
「こわー、なんだよー」
 滝本くんは手をひっこめて、走りさっていく。
 ミチルは、いそいで指先にからまった糸をほどいた。繭の糸をちぎれないように手元に集めながら、来た道をひき返す。
 いそがなきゃ。いそがなきゃ。このままじゃ、立花さんがカイコみたいに――。
 糸を集める手がふるえだす。
 心臓がはげしく鼓動する。
「ごめんね……立花さん……」
 カラカラの口から声がもれる。
 目から涙があふれてくる。
「あ、佐野さーん」
 呼ぶ声がして、ミチルは顔を上げた。
 遊歩道に人影が見えた。
 そのとたん、ミチルはその場にへたりこんだ。
 人影が、かけよってきた。
「どうしたの? 佐野さん」
 目の前にいるのは、ミチルとおなじように繭の糸を両手に抱えた立花さんだった。
「そういえば、かんたんにほどけちゃったね」
 そうつぶやく姿は、以前となにも変わらない。
 色白で、ひょろっとしていて、ちょっと困ったようにふせたこげ茶色の瞳。ミチルが思い描いていた新しい立花さんとはぜんぜんちがうけど――、
「よかったぁ、立花さんが立花さんのままで」
 風が吹き、遊歩道の葉桜がゆれた。
 それを合図にしたように、どこからかピアノの音色がきこえてきた。
 この前とおなじ『ちょうちょ』。
 あれから何日もすぎているのに、まったく上達していない。何度も何度もつっかえながら進んでいく。
「家、こっちの方なの?」
 立花さんがいった。
 ミチルはうなずいて、立ち上がった。
「今度、遊びにきて」
 ミチルがいうと、立花さんは笑った。


『エツコさん』(アリス館)に収録するつもりだった短編。
『エツコさん』を改稿していく中で、全体のバランスをとるため削ったのですが、気に入っていたのでここに投稿。独立した短編として読めるよう手直ししてあるため、『エツコさん』とは関係のないお話になっています。


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