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部屋を汚いと批判した人の部屋はいかに

兄が引っ越しをすることになり、住んでいた部屋を訪れることになった。
2年ぶりくらいに部屋を見たがめちゃくちゃ汚かった。
床は埃まみれで風呂の水回りは汚れだらけ。
私と比べるとかなり意識が違っている。
裸足で歩くのは嫌なくらいだった笑

母も遠くから来ていて、兄の部屋をかなり悪評していた笑
風呂入るのちょっと嫌だななど言っていた。
母は割と綺麗好きで、一緒に暮らしている時は、家中を掃除してくれていた。そのありがたさを今とても感じる。ありがとう。

母は今自分の両親と暮らしているが、その家に去年行った夏。
キッチンの下の収納にちっちゃなゴキブリが大量にいた。
夜になったらさらに増える。
私は驚いたが、土地柄まあ耐性はあるんだろうなとおもった。
私の家だったとしたら即退去または、業者に頼んでどうにかしてもらうだろう。
綺麗好きの母でさえ、これを甘んじて受け入れていた。

何が言いたいかというと、
人によって、当たり前の基準や、環境への耐性が違うことだ。
また、このような感情は事実だが、真実ではないということだ。合理的に考えた上で生まれた感情ではない。
こないだ芸能人が、人の握ったおにぎりは絶対に食べられません。と言っていたが、職人が握った寿司は平気で食べていると言っていた。
大大大矛盾だった。
これは最初に話した部屋の汚さの許容度と似ている。
自分がなんとなく作り上げた許容の境目はとても曖昧で、矛盾だらけ。
当たり前が作った錯覚だ。
ひとたび別の環境に足を突っ込めば、自分の感覚は変わり、当たり前に変わる。
私もゴキブリだらけの家に住み続ければ、それが当たり前になって許容範囲に変わるだろう。

つまり、自分が作った当たり前や、価値観というものは、紛いものであると気づく必要がある。
そして、自分の持っている当たり前と違う当たり前に触れてみることは意外と面白かったりするのではないか。
その当たり前が広がると人に優しく慣れたりもするかもしれない。

そんなことを思った兄の引っ越しだった。

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