私の人生③~W大合格後の地獄~ 「イタバサミ」
こんばんは。非常に具合が悪いです💧遂に来ましたね。この回が。W大受験時の会場の様子と、その後、を書きます。
当たり前ですけど皆必死ですよね。てか皆塾行き過ぎじゃない!?と他の受験生に対して思いました。第1志望のD大は受かってたので、気楽に行きました。一番驚いたのが、赤本では英語解き終われた試しのない私が運良く全部解答用紙に答えを書くことが出来たこと。わーい!そして昼休み。何かしら食い入る様にして読みつつパンとか食べてる子多かったですね。
私は試験中は本気だけど昼休みは「ツナマヨのおにぎりは美味しいなぁ…ふー疲れたちょっと机突っ伏しとこ」でした。お気楽すぎる!!
結果は高校のパソコンで見て、受かってる!という事でこれまた職員室へ。高3の担任の先生を恩師だといつも言ってます。何故かはまた違う話で。
そして職員室入った時、最初に目が合ったのは恩師でした。先生は、私の顔を見て、「落ちたんだろうな」と思い「どう励ましてあげたらいいか」を考えてくださっていたようです。
震える声で言いました。「受かっ…ちゃいました」と。恐らく母校の実績で一番目立つであろう事柄なのに。他の先生方にも結果とお礼を申し上げて、帰宅。祝っていただけたのはとても嬉しくて、少しは誇らしいと思ってもいいよね。と考えていました。
そこで待ち受けていたのは地獄の日々でした。茨城が地元で東京で働く父に、W大行けよと言われました。父に対し、W大行くなら(家を出たかったのと通学時間を減らしたくて)1人暮らしを許して欲しいと頼み続けましたがダメ。となれば志望校のD大を許してもらう他ありません。
毎日父に怒鳴られ、受けた学校全ての合格証書を手にしたまま泣きじゃくっていました。父に怒られて少しでも口答えすると100倍以上言葉で滅多打ちにされるので反抗期がありませんでした。というか反抗する気力ってどこから持ってくるの?わからん😢でもここは譲れない。必死でした。
・一人暮らし金かかるやん→わかる
・W大の方が偏差値高いじゃん→わかる
・今まで頑張ってたんだから勿体ない→分かるけど「私の志望校」はD大
それを理解しても、なぜ私は毎日怒鳴られなければ行けないの?なぜ泣く毎日を過ごさなければいけないの?と思っていました。
そして、父は同僚か誰かに私の話をして回って、当然東京に勤務してるので「W大行かない意味が分からない」って皆言ってるぞ、と言われました。とても辛かったです。吹聴されること自体より、まず父と父が話した会社の人が、ちゃんと社会人として一家を養っているか、自分で生計立てているか、という人ですから。自分で身を立てている人の言葉、と考えると、罪悪感が生まれました。確かに、一般の考え方からはズレてると思います。それはわかります。でも通うのは私です。母からはよく、進路はあなた次第だし別に海外でもいいよ、とまで言われていました。
でも実際、父の意見は全く違う、という事が露呈した結果、ダメージ食らうのは私でした。
大学の選び方が一般的じゃないって…そんなに悪いことなのでしょうか。きちんと学問の面も居心地も考えた上でD大に行きたかったし、考えて自分で出した結論でした。それをボッコボコにされました。
「よく言われていた考えて動け」を実践しただけなのに…。
母が味方してくれたのは救いで、
「もし京都でいい人見つけて結婚したいと言ったら反対するの?」と母が聞いてくれた時、父は「そうかもしれない」とさらっと答えました。
…いや、私の人権はどこへ?
他にも
・「もしW大入って上手いこと学生生活出来なかったら悪いしお父さんのせいにするのは嫌なんだ」→父「別に俺のせいにしてもいい」
…は!?!?
・「確かに東京に通う子もいるけれど、私には無理だよお父さんの言う通り、社会経験としてのバイト出来ないよ」
→「W大行くなら月1万お小遣いあげるよ」
……は?えっと私のQOLを1万で買おうとしてるの??何それ??
卒業式でしたでしょうか。両親揃って、軽く恩師と挨拶している姿を見ました。母は「こちらが夫です」と父を紹介していました。
家に帰って起きたこと
父「お前、こちらが…とか言って問題有りとか悪いのは俺って言う感じで言ってたじゃねえか!」と両親で喧嘩。くだらなっ!そんな毎日を過ごし、W大への入学金納付期限を過ぎた時
「俺一生このこと忘れねぇからな」
今の私からすると特大ブーメランだぞ、と思いますね。
とうとう精神的に限界を感じ、いついただいたかは忘れてしまったんですが、恩師の連絡先を知っていたので、空き教室で話を聞いてくださいました……本当に感謝申し上げますの言葉以外出てこないほど有難かったです。
一応折れてくれた時、「卒業後実家戻ってこないなら大学行かせん(学費の出処は祖母の生前贈与なのだが?)」と言われ、そんなの守るつもりなかったけれど、その場しのぎではい、と答えました。それしか道がありませんでした。それもメンヘラになった原因。
家を出る前夜、頑張ります、みたいなことを一言だけ父に伝えて、朝の事でしたが夜逃げするかのように実家を出ました。
今全ての事は思い出せないので、補足、という形でこの時のことを投稿するかもしれません。
私の苦しみがここまでになったのは、ただ反対されて怒鳴られたのが怖かったとか全部受かったのに毎日泣いてる自分なんなの?とかより、「父の立場からしてみたら、私を泣かせてでも受かった以上W大に入れたい」と言うのは当然のことだと理解していたからです。東京で仕事してて、そこを蹴るなんておかしいって言われるのは分かるのです。実際偏差値的にもW大の方が高いです。
でも、人生の大きな転機であり、母からは動機がしっかりあればどこ行ってもいい、という言葉を信じていて勉強が楽しくなり、実力で切符を取ったので、大学の選択権は私にあるし、住む場所を自分で選んでいい、ということも正しいと思っています。
父と母のコミュニケーション不足に対して私は怒っている所もかなりあります。
普通に祝われて、新たな道へ行ってらっしゃい!って家族の誰にも言われなかった辛さは、今でも私を苦しめています。
因みに、W大受かったら戦争になる、というのは私と母は分かっていました。父の考えることだから、そうやろな、と。受験当日、母が「落ちてきてもいいのよ」と言ってくれました。でも私はせっかく受験料払ってくれたのに、と思ったし、母校のこと考えたり、今まで楽しく頑張れた事を思い出したりして、手を抜くなんて事は、絶対にするまいと思っていました。そもそも私の性格上、出来ませんでした。「全力を出すのは試験時間内のみ」だったので先ほど書いた通り昼休みはダラダラしてましたけど。
判定がAで赤本やってても受かる保証なんてない。正直受かると思っていませんでした。英語全部埋めて出せたのがまず奇跡でしたし。
進学戦争を予期していたために、「勝手に自爆した」「自業自得」って捉えてしまうこともあり、苦しいです。
纏めると、
父の言うことも、私の言うことも間違ってはいない、という考えを持ててしまっていたからこそ、精神的なショックが大きくなったんだと思います。「私悪くないし!お父さんは学費出さないじゃん何言ってるの?お父さんが一番教育にお金かけてもらってたじゃん!」って自分の視点のみの考えで発言出来たなら、それくらい精神的に未熟なら、その方が良かったな、と思うのです。当時、父の視点からも物事を考えられてしまった…。それが後に悪い方へと進んでいきます、
という話です。
長ったらしい話ですが、読んでくれた方には感謝感謝です・:*+.(( °ω° ))/.:+
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