一即一切・一切即一④
一応、上の記事の続きになります。ここまで、華厳経(重々無尽縁起)→天台哲学(性具説)・華厳哲学(性起説)・西田哲学(絶対矛盾的自己同一)→量子論(多世界解釈)と、バラバラの内容を一即一切・一切即一の思想繋がりで大雑把に見てきました。今回は晩年の西田幾多郎(1870-1945)の哲学に大きな影響を与えたライプニッツのモナドを簡単に見ていきたいと思います。
イングランドの数学者・物理学者・神学者であるアイザック・ニュートン(1642-1727)の力学では空間や時間は(神によって創造された実在であり、)絶対的なもので、空間は謂わば物理現象の容器であり、時間は宇宙の如何なるところでも一様に刻まれていくものと考えられていました。
この考え方を変えたのが物理学者のアルバート・アインシュタイン(1879-1955)でした。彼の特殊相対性理論において、時間と空間は絶対的なものではなく、観測者の相対速度によって伸び縮みし、更に、一般相対性理論では時間や空間の伸び縮みが重力の起源であることが説明されました。
そもそも空間や時間とは何のか?これらはあらかじめ存在するものではなく、もっと基礎的なものが存在し、そこから現れて来た二次的なものに過ぎないのではないか?と物理学でも考えられるようになってきたようです。
例えば、熱さや冷たさを定量化した温度という概念ですが、19世紀の物理学者は熱や温度について研究する熱力学という分野を作り出しました。しかし、その後、マクスウェル(1831-1879)やボルツマン(1844-1906)らが登場すると、気体の熱や温度といった性質を分子の運動から説明し、分子のレベルまでいくと温度という概念は消え去ってしまうことを発見しました。それは分子のエネルギーのことだったのです。この温度のように、空間や時間もあるレベルの階層までいくと、その概念自体消え去ってしまうのではないかということです。
ニュートンと同時代においても、時間や空間を事物の外側の枠として実在するという考え方に異を唱える哲学者が既にいました。ドイツの哲学者・数学者であるゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)が有名であると思われます。
ライプニッツは我々の世界というものを、後のコンピューターの世界のように「0」と「1」、即ち「無」と「神」の二進法より成り立つイメージを持っていたのではないかと思います。それは「無」と、「神」によって「創造されたモナド」(以下、モナドと記載)によって構成される世界であり、ニュートンの神と異なり、ライプニッツの神は事物(物体や物理現象)の枠組みとして空間と時間を実際に創造する必要はありません。
このように、ライプニッツによると、時間と空間は神の観念(感性の形式)の中にのみ存在する、それ自体観念的なものに過ぎません。我々人間は「事物の継起の秩序」を時間、「事物の共存の秩序」を空間としているだけであり、事物の外にある実在的な存在ではなく、二次的なものとなります。事物の外にあるものは「無」となります。ライプニッツの考え方の方がより現代物理学に近かったと言えるでしょう。
ライプニッツとニュートン派のクラーク間の書簡において、ライプニッツは『神は事物を常に保存し、事物は神なくして存続しえない』とあり、予定調和を設定したライプニッツの人格神には、デカルト的な「創造=保存」説やデカルト・スピノザ的な「実体」も含まれているのではないか?と思われます。