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「良い小説」と「良い話」の違いとは何なのだろう?

この度、お友達のクリエイター「みこちゃん」からお誘い頂き、『良い小説といい話を峻別しよう党』に入党致しました。私自身、小説を書いた経験は全くなく、みこちゃんがnoteで現在執筆されている長編小説『真夏の死角』のファンの一人です。

○良い小説は円成実性の如く

まず、「良い小説」と「いい話」と聞いて、次の、みこちゃんとのコメントのやり取りを思い出します(^^)

みこちゃん
こんばんは(^^)
 
先程はありがとうございました(笑)
 
良い話と良い小説!
みこちゃんがハッピーエンドかお嫌いな理由は、読者に色々と考える余地を与えられないからですか?^_^

ブリューゲル「イカロスの失墜のある風景」解読~党員募集中(第1号党員かっちーさん)
コメント欄「私(ダルマ)のコメント」より抜粋

ダルマさん
こんばんは
 
たまたまハッピーエンドになるのはいいのですが、作ろうと思って作ったハッピーエンドは「良い話」だから嫌いなのです。
 
だから、同じ理由で作られたバッドエンドも嫌いというわけなのでした。
バッドエンドも実は、まぎれもない「良い話」です。
もっと悪質かな。
 
小説というのは世界観を打ち立てた上で世界観を壊すという精神運動です。そこが「説話」や「物語」と違うところですね。
近代的自我の確立とともに小説もまた出来上がりました。
「私」が措定した世界を私自身が壊すところに世界が出来するのだと思います。
 
見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ
国破れて山河あり

ブリューゲル「イカロスの失墜のある風景」解読~党員募集中(第1号党員かっちーさん)
コメント欄「みこちゃんからのお返事」より抜粋

>「私」が措定した世界を私自身が壊すところに世界が出来するのだと思います。

これはどういうことなのか(・・)、
そのヒントは下記の和歌と漢詩にありました。

藤原定家
 見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ

杜甫
 国破れて山河あり


実は、上記のコメントのやり取り以前に、私は既にみこちゃんから、次の通りご説明して頂いていたのでした(^O^)

みこちゃんの思いついた与太話をば……。

見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ
藤原定家

定家卿はもちろん、だるまさんご存知のように天台宗をしっかり勉強された方ですので『十地経論』や『摂大乗論』などの唯識系の認識論(存在論的認識論?)は通暁していたのかな、と思いました

見渡せば=「仮構されたもの」
意識の俎上に乗せることで一つのパースペクティブを構成する段階です。

花も紅葉もなかりけり=「他に依存するもの」なので陳那さんの言うようにせっかく構成されたパースペクティブは「全ての仮構されたものが否定されている」状態となります。

浦の苫屋の秋の夕暮れ=これは、花も紅葉意識から消え去ったときに初めて出来する「真如」だと思いました。

認識する自分が同時にそこに立ち現れます。

同じように、「国破れて山河あり」というのも、幻視したものが意識から消えて山河のみが立ち現れるところに、認識主体としての自己が結実するので、みこちゃんは定家のあの和歌と杜甫の漢詩は同じ味わいを感じます。

この感覚、この美意識は日本人の心の奥底にしっかりと根づいているなと思います。
というのも、話が長くなりますので、また今度にしますが私は村上春樹の小説のすべてにこの感覚を感じるのです。

ではでは(^-^)/

【大乗仏教】唯識派 三性説①
コメント欄「みこちゃんからのコメント」より引用

上記のみこちゃんからのコメントをもとに、私なりに考察してみます。まず、仮構されたもの=遍計所執性とは我々が言葉の対象や概念を無意識に固有の本体視して、作り上げたものです。「良い話」とはいわば、このレベルに留まっているものと考えられます。作ろうと思って作ったハッピーエンドやバッドエンドはおそらくここに含まれると思います。

そして、この遍計所執性が依他起性から完全に取り除かれると同時に現出する真如=円成実性こそ、「良い小説」である思います。みこちゃんがお持ちの小説観は、まるで、(般若経の)三性説の世界観を連想させるもので、私は驚愕でした(^^)

そして、かっちーさんも素敵な小説観をご披露されています!

真如真珠が重なりました(笑)。もしかすると、かっちーさんがお持ちの小説観も(般若経の)三性説の世界観に近いのではないかと、私は感じました。

○メタ認知を行う読者を忘れない

また、次のようなみこちゃんとのやり取りも思い出します。ちなみに、「美姫ちゃん・慶次くん・恵理子さん」とは、みこちゃんが執筆されている小説『真夏の死角』の登場人物の名前です。

みこちゃん
こんにちは(^^)
空手の演舞型と組手型のご説明をありがとうございました。
 
美姫ちゃんと慶次くん、推理の時間ですね!
私達読者にしか分かっていない人間関係もありますので、私達も彼らとは別の世界で一緒に推理ですね(^^♪

【長編小説】真夏の死角28恵理子さんのこと
コメント欄「私(ダルマ)のコメント」より抜粋

ダルマさん
こんにちは
 
どこのツボを付くとみこちゃんが喜ぶかを熟知しておられますね(笑)。
 
>>私達読者にしか分かっていない人間関係
 
そうです。
この部分が推理小説の根幹なのです。
推理小説を犯人当てだとか、動機当てとか、やり方当て
(それぞれ推理小説用語で、フーダニット、ホワイダニット
ハウダニットといいます。who done it?)とかいうのは、ノックスの最低限の定義であって、これでは劇場空間は生まれません。
 
典型的な本格推理小説が読んでいてつまらないのは、このメタ認知を行う読者のことを忘れているからですね。
 
ここを取り込めば、二次元の推理パズルが、現実世界を第三の軸としての世界として立体化されます。
 
これが推理作家ではなく、作家の力量だとみこちゃんは思っております。

【長編小説】真夏の死角28恵理子さんのこと
コメント欄「みこちゃんからのお返事」より抜粋

「メタ認知を行う読者のことを忘れない」、これも大切な要素であることを学びました。「二次元の推理パズルが、現実世界を第三の軸としての世界として立体化される」、この表現にも痺れました!(^O^)

前述のように、私は小説を書いた経験はないので、読む側からの感想になりますが、円成実性なる「良い小説」は読者をその世界に引き込んでくれるように思います。引き込まれた読者は、その小説の中の世界で「精神体だけで存在する人物」の如く、登場人物と違う視点(メタ視点)・時に同じ視点からその世界を体験することができます。円成実性は真如であると同時に、無形象唯識派においてはメタ視点「光り輝く心」でもあるのです。

小説「真夏の死角」でやりたいことは「2つ以上の世界との交錯」であること、そして、それはポリフォニー音楽の如くであることを、みこちゃんは音楽史の記事のコメントで教えて下さいました。

みこちゃんが作曲中(執筆中)のポリフォニー音楽(小説)「真夏の死角」には、引き続き私達読者のパートも用意されているようですね。今後の合唱(展開)が楽しみです♪