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【魂の科学】の哲学


今回は『魂の科学』(たま出版)という著書を参考に、サーンキヤ哲学を見ていきたいと思います。

著者紹介/スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ
現在インドにおいて、グル(導師)の中の最高のグルと呼ばれていた、ラージャ・ヨーガ大師。10代で出家後、八十四年間にわたりヒマラヤ山中でヨーガを行じ続け、悟りの境地に達し最高の智慧を得る。多数の著書の内、邦訳は、本書と、『実践・ヨーガ大全』とがある。1985年4月23日午後7時半、大涅槃に入る。御歳99歳であった。

訳者紹介/ギャーナ・ヨーギ(木村慧心)
1947年前橋市に生まれる。1969年東京教育大学理学部卒業後、宗教法人理想教の信仰活動に参加。京都大学で2年間宗教学を修めた後、信仰修行のため渡印し、著者に会遇す。ラージャ・ヨーガ行法の指導を受け、1982年ヨーガの秘伝を伝授され、ラージャ・ヨーガ・アチャルヤ(導師)となる。現在、理想教本部教会で信仰活動に従事するかたわら、ラージャ・ヨーガ及びヨーガ療法を教授。日本ヨーガ・ニケタン代表、日本ヨーガ療法学会理事長。鳥取県米子市在住。

スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ氏は長年のヨーガ修行による経験と独自の視点からヨーガ哲学・サーンキヤ哲学・ウパニシャッド哲学等を統合して、一つの哲学を作り上げている、筆者は素晴らしい本であると考えています。『魂の科学』の話に入る前に、簡単に純粋な?サーンキヤ哲学に触れておきたいと思います。

○サーンキヤ哲学とは?

「サーンキヤ」という語は「知識によって解脱するための道」のことを意味していたとされます。サーンキヤ学派を開いたのはカピラで、その弟子にパンチャシカがいたと言われています。しかし、一言でサーンキヤ哲学と言っても、初期には様々な説が含まれていたことが分かっています。『サーンキヤ・カーリカ』は四~五世紀頃にイークシュヴァラ・クリシュナがサーンキヤ学派の諸学説をまとめたものです。

『サーンキヤ・カーリカ』における世界構成原理は究極的にはプルシャ(自己)(真我)(純粋意識)プラクリティ(自性)(根本原質)(心身の源)という二つの原理によって説明するものです。即ち、二元論です。永久に実在するのはこの二つのみであり、創造神や主宰神といったものを立てません。プルシャ(自己)は意識原理であり、「純粋意識」「真我」などとも訳されます。活動もなく、ただプラクリティ(自性)を観照するだけであり、本来清浄で独存しています。そして、多数存在します。一方、プラクリティ(自性)は根本原質であり、根本的な質料因・物心的なものの根源です。プラダーナや未顕現などとも呼ばれます。活動し、単一であり、三種のグナ(性質原理)(純性:サットヴァ、激性:ラジャス、翳性:タマス)によって成り立ち、それらは均衡状態にあります。プラクリティがプルシャの観照を受け、ラジャスの活動が始まり、三種のグナの均衡が崩れることで世界(宇宙)が展開(流出)、即ち、プラクリティから様々な実在原理が現れます。その際、世界内の実在原理は三種類のグナの混合比率で、多様な姿を表すとしました。

○スワミ・ヨーゲシヴァラナンダの哲学

ここから先は、『魂の科学』を参考にサーンキヤ哲学を見ていきたいと思います。ブラフマン(梵)を設定し、それを宇宙展開の動力因とするなど、サーンキヤ哲学との相違点もいくつか見られます。しかし、個人レベルの話と宇宙レベルの話の区別をしやすく、一元論・二元論をあまり意識せずに学べるのがスワミ・ヨーゲシヴァラナンダ氏の哲学であると筆者は考えます。下の図はヨーゲシヴァラナンダ氏の哲学のうち、主にサーンキヤ哲学に関連する箇所のみを、筆者の理解の範囲でまとめたものです。
(難しいので、筆者がどこまでヨーゲシヴァラナンダ氏の哲学を正しく理解できているのかは不明です…)

『魂の科学』を参考に作成

宇宙誕生時において、絶対者ブラフマン(梵)が動力因となり、質料因であるプラクリティ(根本自性)からマハット(偉大な実在原理)が最初に生じます。純性優位のマハットから宇宙心素(チッタ)、激性優位のマハットから宇宙理智(ブッディ)、翳性優位のマハットから宇宙我執(アハンカーラ)が生じ、続いて、純性と激性の二つが優位な宇宙我執から宇宙意思(マナス)、純性優位の宇宙我執から宇宙知覚五根(ジュニャーナインドリヤス)、激性優位の宇宙我執から宇宙運動五根(カルマインドリヤス)、翳性優位の宇宙我執から五微細元素(タンマートラ)がそれぞれ生じていき、最後に、五微細元素のそれぞれから五粗雑元素(ブータ)が生じる流れになります。

「個体」として生命を有するのは真我(プルシャ)であり、ウパニシャッド哲学における我(アートマン)、そして『サーンキヤ・カーリカ』における自己(プルシャ)に該当します。意識として、照明作用を司ります。そして、真我(プルシャ)は宇宙レベルの根本自性(プラクリティ)の一部である微細根本自性に無始以来より覆われています。また、根本自性(プラクリティ)と絶対者ブラフマン(梵)は全空間に遍く浸透していると説かれています。

微細根本自性だけでなく、「個体」の心(精神)と身体と呼ばれるものは、宇宙レベルの実在原理の一部から成り立っています。我々の心(精神)は内的器官と呼ばれる「心素・理智・我執・意思」より成り、身体は外的器官である「知覚五根・運動五根」と構造を形成する「五唯・五大」から成ります。五大から肉体(生気鞘+食物鞘)が作られ、理智・意思・十根・五唯から微細体(理智鞘+意思鞘)、そして真我・微細根本自性・心素・我執・微細生気から原因体(歓喜鞘)がそれぞれ作られます。そして、個体が死滅する際には、その肉体から原因体+微細体が離れ、新しい肉体へ輪廻転生します。前の生涯における業(カルマ)や残存印象を貯蔵しているのは心素です。しかし、宇宙自体が滅ぶ際には、上の図における時間・空間・方向の点線より下の存在は上の存在である根本自性へと帰滅するため、個体レベルでは微細根本自性が代わりに貯蔵庫として機能するものと思われます。

○輪廻からの解脱とは?

微細根本自性の活動目的は真我の解脱のために行われると『サーンキヤ・カーリカ』においても説かれますが、そもそも真我は上図における時間・空間・方向の点線よりも上に位置しており、既に輪廻の世界から解脱した存在であるのです。それでは一体何が、何に束縛されて輪廻が起こるのか?

無知な真我が、歓喜の対象を本来のブラフマン側ではなく、誤って根本自性側に求めて観照してしまいます。微細根本自性は自身のあらゆる姿(諸原理)を駆使して、真我にそのことへ気付いて貰おうとしますが、更に迷い込ませてしまう状態へ陥ります。これが輪廻の状態であり、真我は迷い込んでいるとはいっても、外から見ると真我は何ら束縛を受けていないのであり、見られた微細根本自性が自分で自分を束縛している状態と言えるでしょう。この場合、客観的に見ると輪廻から解脱するのは微細根本自性ということになると思われます。

輪廻から解脱するには、ヨーガの修行を行って諸原理を正しく理解しなければなりません。微細根本自性(から分化した心素や理智)の状態が、諸原理に対する正しい知識状態となることで、「私(真我)は~でない」という、誤りなき認識に基づく知識が生まれてくるとされます。このように、正しい知識以外の心の諸状態をとらなくなった微細根本自性を、真我は観客のように落ち着いて観照し、「私は既に見終わった」と思って微細根本自性に対して無関心になり、一方の微細根本自性は「私は既に見られ終わった」と思って活動を停止します。真我は同時に、本来のブラフマンと合一(梵我一如)した状態とも言えます。この後、真我と根本自性が再び結び付いたとしても輪廻が起こることはありません。ろくろが粘土を取り去っても、過去の勢いで回転し続けているように、各身体はその個体が死ぬまで保持され続けます。肉体が死を迎え、肉体から離れて目的が達成されると微細根本自性は活動を止め、終わりのない独存(根本自性へと帰還)に達します。

○同じものを、実は様々な違う角度から見ていただけ?

真我(プルシャ)を、最終的に絶対者ブラフマンに合一するものとし、更に絶対者ブラフマンと根本自性(プラクリティ)をまとめてブラフマンであると考えると、ウパニシャッド哲学やヴェーダンタ哲学のような一元論になります。また、真我(プルシャ)と絶対者ブラフマンをまとめて自己(プルシャ)であるとすると、自己(プルシャ)と自性(プラクリティ)の二元論を説くサーンキヤ哲学のようになります。また、大乗仏教においても、如来蔵(光り輝く心)が真我(プルシャ)に該当し、如来法身は絶対者ブラフマンや根本自性があてはまるように考えられます。こう考えると、仏教を含めた古代インド哲学の一元論VS二元論、本体有VS本体空の論争はあまり意味がなかったのではないかとも思えてきます。

ちなみに、筆者が前々回と前回の記事で取り上げた「多能性幹細胞」と「真空のゆらぎ」のイメージをあわせると、自性・根本自性(プラクリティ)のようなものになると思います。