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【原始仏教】潜在煩悩の顕在化

十二縁起の最初の「無明(迷妄・愚癡)」は「真の自己を知らない(なぜ自分が自分であるのかを知らない)=四諦に対する根本的無知」という潜在煩悩であり、真の自己を覆っています。十二縁起の二支目の「行(サンスカーラ)」は次の三種類に大別することができます。即ち、業(カルマ)・残存印象・潜在煩悩です。十二縁起とはその中でも特に「業(カルマ)」という種子が結実し、次の生涯への再生をもたらす過程を示しているのです。

今回は十二縁起の過程である「業(カルマ)」の結実ではなく、業と同じく真の自己にくっついている「潜在煩悩」の顕在化を示す縁起を見ていきたいと思います。

釈尊:
「比丘たちよ、欲尋は因縁あれば生じ、因縁なければ生じません。比丘たちよ、それではどのように欲尋は因縁あれば生じ、因縁なければ生じないのか。どのように瞋恚尋は因縁あれば生じ、因縁なければ生じないのか。どのように害尋は因縁あれば生じ、因縁なければ生じないのか。比丘たちよ、{欲界・瞋恚界・害界}によって{欲想・瞋恚想・害想}が生じ、{欲想・瞋恚想・害想}によって{欲思・瞋恚思・害思}が生じ、{欲思・瞋恚思・害思}によって{欲欲・瞋恚欲・害欲}が生じ、{欲欲・瞋恚欲・害欲}によって{欲悩・瞋恚悩・害悩}が生じ、{欲悩・瞋恚悩・害悩}によって{欲求・瞋恚求・害求}が生じます。比丘達よ、{欲求・瞋恚求・害求}を求める聞のない凡夫は三処によって、即ち、身によって、語によって、意によって邪に実践します。」

・欲尋:欲界→欲想→欲思→欲欲→欲悩→欲求→→悪行
・瞋恚尋:瞋恚界→瞋恚想→瞋恚思→瞋恚欲→瞋恚悩→瞋恚求→→悪行
・害尋:害界→害想→害思→害欲→害悩→害求→→悪行

ここでの欲界とは身体と楽の感覚にある随眠欲の煩悩(潜在煩悩)であり、楽受→欲界→の順になります。瞋恚界と害界は身体と苦の感覚にある随眠怒りの煩悩(潜在煩悩)であり、苦受→瞋恚界・害界→の順になります。楽受は善行功徳の報酬で、苦受は悪行罪障の報いなので、悪循環ですね。

釈尊:
「比丘たちよ、種々の界によって種々の想が生じます。種々の想によって種々の思が生じます。種々の思によって種々の欲が生じます。種々の欲によって種々の悩が生じます。種々の悩によって種々の求が生じます。」

「界→想→思→欲→悩→求」とは別の顕在化ルートも説かれます。

釈尊:
「比丘たちよ、種々の界によって種々の想が生じます。種々の想によって種々の思が生じます。種々の思によって種々の触が生じます。種々の触によって種々の受が生じます。種々の受によって種々の欲が生じます。種々の欲によって種々の悩が生じます。種々の悩によって種々の求が生じます。種々の求によって種々の得が生じます。」

「界→想→思→触→受→欲→悩→求→得」というルートです。内的に生じた思(動機付け)に応じ、外界に対して抱く煩悩の顕在化ルートです。以下のように説かれることもあります。

釈尊:
「この感受によって渇愛が生じます。渇愛によって欲求が生じ、欲求によって獲得が生じ、獲得によって決定が生じ、決定によって欲貪が生じ、欲貪によって愛着が生じ、愛着によって所有が生じ、所有によって物惜しみが生じ、物惜しみによって保護が生じます。保護のために、棒を取ること、刀を取ること、争い、反目、口論、罵り合い、中傷、嘘言といった多くの悪しき不善の法が生じます。」

釈尊:
「争闘と争論と悲しみと憂いと慳みと慢心し傲慢と悪口とは愛し好むものにもとづいて起る。争闘と争論とは慳みに伴い、争論が生じたときに、悪口が起る。世の中で愛し好むもの及び、世の中にはびこる貪りは欲望にもとづいて起る。また人が来世に関して抱く希望と成就とは、それに基づいて起る。

世の中で<快><不快>と称するものに依って、欲望が起る。諸々の物質的存在には生起と消滅とのあることを見て、世の中には<外的な事物にとらわれた>断定を下す。怒りと虚言と疑惑、これらのことがらも快と不快との二つがあるときに現れる。疑惑ある人は知識の道に学べ。<道の人>は、知って、諸々のことがらを説いたのである。

快と不快とは感官による接触に基づいて起る。感官の接触が存在しないときにはこれらのものも起こらない。生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているもの(感官による接触)を、我は汝に告げる。

名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は欲求を縁として起こる。欲求がないときには、<我がもの>という我執も存在しない。形態が消滅したときには<感官による接触>は働かない。」

人々が醜い争いに明け暮れる因縁を説いています。