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一即一切・一切即一③

上の記事の続きになります。
前回は西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一により、中国天台宗の性具説と中国華厳宗の性起説における相違点を見て行きました。今回はまた急ですが、量子論の多世界解釈を少し見ていきたいと思います。

○マクロ世界(古典物理学)
客体に影響を与えることなく、主体は客体を観察することが可能。即ち、客体の位置や運動量などの状態(客体の状態)はただ1つの値に決まっており、未来の状態は現在の状態に基づいて機械的に決まる

○ミクロ世界(量子力学 コペンハーゲン解釈)
主体が観測装置を用いて観測することで、客体の状態が決まる。主体は客体の状態を1つに確定できず、未来には複数の可能性がある。どれが実現されるのかは確率的に決まる。観測前の客体は様々な場所にいる状態が重なり合っていると考える。
※客体の外に主体を置く

○ミクロ世界(量子力学 多世界解釈)
主体が観測装置を用いて観測することで、主体自身がいる世界が分かる。主体は客体(世界)を1つに確定できず、未来(先の世界)には複数の可能性がある。どの世界へ行くのかは確率的に決まる。観測前の客体は、それが様々な場所にいる可能性世界が重なり合うように同時並行的に存在していると考える。
※客体の中に主体を置く

「電子のダブルスリット通過実験」を例に見ていきたいと思います。

そもそも、ダブルスリット通過実験は、19世紀初めにイギリスの物理学者ヤング光の干渉という現象を発見した実験方法でもありました。スリットを2つあけた板に光を通して、スクリーンに光がどのように投射されるかの実験です。

簡単に言うと、この実験を光の代わりに電子で行うのが「電子のダブルスリット通過実験」です。

この光の干渉という現象の発見により、光の正体は波であるとする説が当時定着したとされます(ただし、あくまで量子の父であるプランクがエネルギー量子仮説を提唱する前の話です…更にその後、アインシュタインが光電効果を発見して光は波と粒の二重性を有することが判明しますが)。

ちなみに、波の干渉とは2つの波の振幅である山と山同士、谷と谷同士が重なると、山の高さや谷の深さが増し、逆に2つの波の山と谷が重なると波が消えてしまうという現象です。

○多世界解釈で考えてみる電子のダブルスリット通過実験

この実験を簡単に説明しますと、電子ビームを発射する電子銃という装置を用意してスクリーンに向けます。スクリーンには蛍光物質が塗ってあり、電子が当たった場所が光るようになっています。そして、電子銃とスクリーンの間に二つのスリットをあけた板を置き、電子銃から電子ビーム(電子1個分相当)を発射します。

電子(1個分)の発射回数が少ないうちは光点が点々とスクリーンに見えるだけですが、回数を増やすごとにそれが明暗の模様となっていることが明らかになっていきます。そして、ついにはそれが明確な干渉縞になっていることが分かるのです。干渉縞の明るい部分は多くの電子がその場に到達したことを、暗い部分は電子がそこに到達しなかったことを意味しています。

このような干渉縞ができるのは電子が1個でも波のようにダブルスリットを通過してスクリーンに達したためです。仮に電子が粒子としてスリットを通過したのなら、スクリーンには2つの細長い光の帯が現れるだけで、干渉縞は現れません。

干渉という現象は2つの波が重なったときに現れるものです。上記のように、電子銃から発射された電子は1個でも波として自分自身と干渉したことになります。即ち、電子は左側スリットを通過すると同時に右側スリットを通過して、自分自身と干渉状態となったのです。そして、コペンハーゲン解釈的には、電子がスクリーン上で観測者(主体)によって観測されるときには、波は収縮してある1点に発見されることになります。これを何度も繰り返すと、電子の発見位置は干渉縞の模様となっていることが分かる、というものです。

一方、多世界解釈の考え方はこのようになると思います。1個の電子がダブルスリットを通過する時、左側スリットを通過すると同時に右側スリットを通過して干渉状態となります。そして、スクリーン上の様々な場所に発見される未来の可能性世界のうちいずれかが現在に実現し、その世界内にいる観測者はどこか1点に電子を発見することになります。これを(何度も繰り返すと)多数の観測者が同時に観測すると、電子の発見位置は干渉縞になっていることが分かる、という流れと考えられます。

○未来から現在への流れは古代インド仏教から既に登場していた?

この「波として振る舞い、粒として見つかる電子」の問題をどう解釈するかについて、これが絶対に正しいというものはまだないようです。

多世界解釈における可能性ある無数の未来から現在が実現する流れは、特に上座部の「説一切有部」が強調した思想です。そして、西田幾多郎が「絶対矛盾的自己同一」において「永遠の未来」としたものが、それに相当するのではないかと思います。