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一即一切・一切即一②

上の記事の続きになります。今回、中国天台宗の性具説(一多相即論)中国華厳宗の性起説(一即多・多即一)をそれぞれかなり大雑把にではありますが、少しお話ししたいと思います。中国天台宗と中国華厳宗の両宗は論争を通じ、互いの思想に大きな影響を与え合ってきたと言われています。

それぞれの哲学において用いられる用語を使用すると、ややこしくなるため、天台と華厳の両思想とも普遍なる「一」を「理」三界階層(欲界・色界・無色界)の万有・個物の「多(一切)」を「事」で表現します。前回の記事における三界唯心の一心を「理」、三界を「事」に変換した感じと考えて頂けると幸いです。

さて、前回のお話の流れで説明しやすい華厳宗の性起説を先に見ていきたいと思います。そして、性起説と性具説の違いを分かりやすくするため、日本が生んだ最高峰の哲学者 西田幾多郎(1870~1945)の「絶対矛盾的自己同一」を参考にしたいと思います。

○中国 華厳宗の性起説と西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一

「事」が性として「理」の中に具わっているわけではなく、普遍な「理」はあくまで純一・純善無雑であり、その普遍な「理」が(無明によって)随縁起動して差別多様な「事」の万有全てが生起するとします。

「理」から生起した「事」は縁によって生成しただけの仮の姿のため、縁がなくなると「事」としては消え失せ、「理」へと帰滅します。即ち、「事」の各々同士は現れ出た姿や性質こそ別々なもの、時に相反するものですが、体(自己)は因縁によって一つ(理)に繋がっており、互いに融通し合う全体関連的な世界観です。

水(理)は風(無明)を縁として波(事)を生じ、波は風がしずまれば消えて水本来の静寂さを取り戻すといった例えが『大乗起信論』に登場します。即ち、性起とは各衆生に本来具わる「理」(自性清浄心)が現起してくることを意味しています。

華厳宗の性起説は、真理は清浄とする『般若経』の空、『華厳経』における「重々無尽縁起」や「三界唯心」をはじめ、無形象唯識論や如来蔵思想を受け継いだ形になります。

西田哲学における「絶対矛盾的自己同一」において、究極の一(媒介者)なる「絶対無」が「理」に相当し、そこに成立する「事」は{自身の独立性(自己)を肯定する個物(非連続)}と{複数の個物(非連続)同士の独立性(自己)を否定して、それらを対立・綜合させて同一性にまとめようとする一般者・媒介者(連続)}から成ります。

個物(非連続)同士の対立・綜合のみならず、個物(非連続)と一般者(連続)もまた、より高次の一般者(高次の連続)を媒介者として互いに対立・綜合し、その際に個物(非連続)は多という自己を否定して全体の部分となり、同時に一般者(連続)は一という自己を否定して個物(非連続)の中に映し出されます。まさに時間・空間において、一即多・多即一なる非連続と連続の世界観です。

○中国 天台宗の性具説

「理」の中に「事」の万有全てが性として本来具わっており、随縁して「理」から生起する「事」の万有全てについても、それらの中に「理」や他の「事」が全て性として具わっているとします。

この点は、個物(非連続)が一般者(連続)との対立・綜合に際して、自身の中に全体を映し出すという西田哲学及び華厳哲学とも共通点していますが、天台哲学では二者の綜合において、各々の自己が相互否定されることがなく相即・円融的に同一になるとし、そこが異なる点と考えられます。

当然、「事」が生起していないときの「理」の中にも「事」が性として具有されていることなり、華厳哲学の純一無雑な「理」と異なることが分かります。おそらく、天台哲学の立場から考えると、華厳哲学や西田哲学は「理」を「事」のやや上に置く傾向があることになると思います。天台哲学は「理」と「事」をより並列に置いていることになります。

「理」と「事」の相即・円融に主眼を置いた形での全体総合的な世界観であり、「理」と「事」が二である当体ままで、互いを妨げ合うことなく即一であると説かれます。即ち、変化生滅する多様な「事」に即して、永遠の統一的真理=普遍的真理「理」を見ようとしたのです。

そのため、覚りを得ても「理」の中に「事」の性はあることになり、それは即ち、「事」の階層を克服して「理」のみに至った時に覚りが訪れる形ではないということです。しかし、逆に「事」そのまま「理」、即ち「事=理」が覚りということではなく、あくまで「理」へと向かう「事」との厳しい対立の当処に覚りが見出されるということです(修行する必要がないと言っているわけではありません)。

天台宗は『法華経』における「開三顕一」の思想、即ち「声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三乗が一乗(仏乗)に帰する・止揚される」をはじめ、『維摩経』の「不二の法門」や中観思想をもとに性具説を打ち立てていますが、『華厳経』の影響も間違いなくあったと思われます。

いずれにしても、一切に仏性が宿ることになります。