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一即一切・一切即一

『おくのほそ道』で有名な俳人、松尾芭蕉は立石寺を訪れた際に、次の俳句を残しています。

閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声

蝉時雨!なぜ、それが閑かであるのか?
真逆ではないのかと普通考えてしまいますよね(笑)
これについて、仏教学者の木村清孝氏は自身の著書である「華厳経入門」で次のように解釈しています。

「一滴の雫が大宇宙を宿し、一瞬の星のまたたきに永遠の時間が凝縮されている」

これは、常識的な立場からは「蝉が鳴いているのに、どうして閑かであるといえるのか」という反論さえ出てきそうな句ですが、おそらく芭蕉はこの蝉の声を、すべての周囲の音を奪い取り、一切を深い静寂に導き入れるものとして聴いたのです。少なくとも芭蕉にとっては、この蝉の声は暫時、全宇宙を飲み込んだのです。「閑か」とは、そういう存在の深淵が開かれた姿の表現なのではないでしょうか。

立石寺で鳴く蝉の声、それは同時刻において世界中で鳴っている音のほんの一部に過ぎません。しかし、この時の松尾芭蕉にとっては、まさに蝉時雨が彼の心の全世界の音全てを呑み込んでいたのでしょう。

○重々無尽の縁起(法界縁起)

初期大乗経典の一つである『華厳経』では「一の中に無量を解り、無量の中に一を解る」という表現が様々な形で登場しています。

「華厳経 盧遮那品」より
一つの微粒子(塵)の中に、一切の微粒子に等しい数の小さな国土が全て入っている…〜

「華厳経 初発心功徳品」より
微小な世界に広大な世界があり、広大な世界が微小な世界である…〜
無数の世界が一つの世界に入り、一つの世界が無数の世界に入る…〜
無量の劫が一瞬間であり、一瞬間が無量の劫である…〜

このように、『華厳経』には事象や空間、さらには時間についても独立した存在と考えず、万有が自身以外の他の全てと相互に関係し合い、互いを含み合っているとします。「一即一切・一切即一」または「一即多・多即一」とも表現され、これを重々無尽の縁起や法界縁起といいます。

○三界唯心と唯識論

『華厳経』において、「重々無尽の縁起(法界縁起)」と同じく有名な思想が「三界唯心」の思想ですね。この二つの思想は密接に関係しており、「一」が心、「一切」が「三界」に該当していると思われます。

「華厳経 十地品」より
何ものでも、この三界(欲界・色界・無色界)のうちに存するものは、ただ「心」のみである。十二縁起(における各支)はすべて如来が区別して説かれたのであるが、それらはすべて「一つの心」に依存しているのである。いかなる事物についてでも、煩悩を伴った心が起こるならば、その心は「識」である。その事物は「行」である。「行」のうちにあって人を迷わすもの、それは「無明」である。「名色」は「無明」の心とともに生ずる。

三界(欲界・色界・無色界)とは我々衆生(覚っていない凡夫)がそれぞれ住む世界の区別です。三界には多種多様な相が存在します。しかし、我々の主観も、客観として現れる現象も、真実には「普遍な一つの心」なのであり、固有に有ると思われている多種多様な差別・区別は全て虚構であることになります。

三界唯心思想に基づいた十二縁起の解釈も『華厳経』中に登場しています。分かりやすくするため、唯識思想の用語を借りて考えると、次のようになるかと思います。(十二縁起は無明からのスタートですが、一つの心は無明よりも前に設定されるべきものです。)

・心=阿頼耶識の中心(如来蔵、清浄法界など)
・無明=阿頼耶識の種子に含まれる無明の心所
・行=阿頼耶識の種子(カルマ)、記憶
・識=阿頼耶識の表層+末那識+六識


また、阿頼耶識・末那識・六識の「識の三層」の考え方ではなく、相分・見分・自証分・証自証分の「識の四分」の考え方に書き変えてみると、次のようになります。(認識的な立場から見る際は三層よりも四分説で考えた方が分かりやすかったりします。)

・証自証分=心(阿頼耶識の中心)
・自証分=末那識+阿頼耶識の表層(+種子)
・見分=六識
・相分=六識内の表象

自証分、見分、相分は刹那ごとに継起しては消滅しますが、証自証分は恒常であり、無常な下三分を観照します。

このように、「一即一切・一切即一」という思想は、一人一宇宙、即ち三界唯心・唯識論とセットで考えることで、明快になることが分かります。記事の冒頭で紹介した松尾芭蕉の俳句も、一人一宇宙を基準に考えると、なるほど!と思えてきます。