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【大乗仏教】中観派 龍樹(ナーガルジュナ)の思想

今回から、大乗仏教「中観派」の龍樹(ナーガルジュナ)の思想に入っていきたいと思います。

○龍樹(ナーガルジュナ)と中観派
中観派とは龍樹(ナーガルジュナ)によって創始された大乗仏教の学派の一つです。伝記の上において、龍樹は南インドで活躍したと言われており、現代の一般的な学説でも彼は南インドのデカン高原のヴィダルバに生まれ、成人後も南インドのアンドラ王国で活躍したと考えられています。これは彼が般若経の思想の哲学的大成者であり、その般若経は南インドで成立し、次第に北インドへ流布したという事実と一致しています。龍樹がバラモン教説を正確に理解し、鋭く批判している事実から考えて彼をバラモン出身とする記述は真実と思われています。伝記に表れた龍樹は劇的な波瀾に富んだ生涯を送った人であり、その気性の激しさ、盛んな批判精神、そして東奔西走する英雄的な活動、こうした生き方は釈尊やその保守的な弟子達の平和・冷静・円滑という言葉で形容される生活とはかなり違ったものとなります。また、龍樹の主著『中論』は一言で言えば、『般若経』の修行者が見出した最高の真実の上に立って、区別の哲学を批判する書物であると言われています。

○龍樹は形式論理学を熟知していた
古代インドにおいても、形式論理学が独自に発展していました(ニヤーヤ学派やヴァイシェーシカ学派)。龍樹は論理学に精通しており、西洋の形式論理の三原則(同一律・矛盾律・排中律)を事実上認めているものの、ことごとくこれらを無視した主張を展開します。

●同一律:「AはAである」
●矛盾律:「Aは非Aでない」
●排中律:「AはBまたは非Bである」

これは龍樹の論理が「現象の領域」における論理ではなく、本体を問題とする論理であるためです。勿論、龍樹は現象界のいかなるものもAかつ非Aであることはできない点を十分に理解していましたが、本体の世界においては現象界の論理が成り立たないことを示しているのです。

○「本体」の世界に部分的関係の論理は通用しない

「薪は燃えるものである」という命題について、「燃えていない薪」と点火されて「燃えている薪」は異なっていますが、その相違を無視して我々は「薪」と「燃えるもの」との同一性を主張します。しかし、そのような部分的な同一性というものは現象の世界において当たり前ですが、龍樹が説く本体の世界では許されません。「ある薪は燃えているが、ある薪は燃えていない」という主張は、龍樹を相手に薪の本質を「燃えるもの」と同一であるか否か、別異であるか否かを議論する場合には許されないのです。同一であれば全ての薪が燃えている必要があり、別異であれば全ての薪が燃えていない必要があります。

つまり、龍樹は「薪は燃えるものでもないし、燃えないものでもない」と主張すると思います。二つの矛盾する命題がともに偽であることは形式論理学では許されませんが、龍樹の視点は本体の世界であるため、本体として存在しないものには矛盾する二つの命題をともに偽であることも、ともに真であることもできるとします。例えば、現象の世界視点において、我々が「ウサギの角」について議論する場合と同じです。ウサギの角なんて現象は存在しないので、それは「鋭くもないし、鋭くなくもない」と主張しても成り立たないわけではありません。なぜなら、ウサギの角は実在しない偽りの名辞であるためです。

龍樹が西洋の形式論理の三原則を無視した主張を頻繁に行うのはこのためであり、彼の論理が現象の領域における論理ではなくて、本体を問題とする論理であることを示しているのです。要は、「固有の本体・自性」というものは概念・思惟の対象・言葉の対象を実体化させたに過ぎず、思惟や言葉の世界以外にそれは存在しないと、説一切有部をはじめ、数種の言葉の形而上学者へ反論しているのです。

龍樹も言葉そのものを否定したわけではありません。言葉は日常的な世界を成り立たせる情報交換手段として重要であり、言葉なしに我々は生きてゆけません。真理を伝えるためにも言葉が必要です。しかし、そのような言葉の日常的効用を越え、言葉に対応する本体があり、この現象の他に言葉の意味する本体の世界があると考えること、一般に形而上学的な思弁の世界はすべて虚構であると龍樹は述べているのです。

○有部と龍樹で異なる「本体」の定義
龍樹の主な論戦相手は説一切有部ですが、両者で「本体」の定義自体がそもそも異なるため、議論にややすれ違いが起きている印象を受けます。「本体とはどのように定義するのが相応しいのか?」についてをむしろ徹底的に議論をした方がよかったのではないかと思います。

上の図のように、龍樹にとっては説一切有部が本体を仮定して現象を説明しようとすることは本体の論理と現象の論理を混同していることになります。本体の世界には部分的関係の論理はなりたたないと龍樹は指摘しています。法体Aが本体であるならば、「ある法体Aは作用中で、ある法体Aは未作用で…」という主張は龍樹に対して通用しません。

以上のことを踏まえまして、次回から龍樹の論理形式とその例について触れていきたいと思います。