野呂邦暢随想『落城記』との出会いー梨緒姫の迸る生娘の熱量に酔う
芥川賞作家の野呂邦暢をご存じだろうか。
野呂は長崎に生まれ、諫早で育ち、昭和49年に『草のつるぎ』で芥川賞を受賞した後も諫早に住み続け、諫早や長崎などを舞台に創作活動に勤しみ、42歳で諫早の自宅で夭折した。「言葉の風景画家」とも称されたその清冽な作風は、今なお多くの読者を惹きつけてやまない。
私が野呂邦暢と出会ったのは、昭和59年に再放送されたテレビドラマの「わが愛の城ー落城記より」をたまたま観たことがきっかけだった。
すぐに原作を手に取った。本を読むと勝手に頭の中に物語の情景が立ち上がり、テレビで見た萩原健一や岸本加代子らが今度は小説の中の登場人物として伊佐早の街で躍動した。それまでは小説などほとんど読んだことがなかったが、諫早を舞台にした歴史小説に胸がわくわくした。
何より当時の伊佐早の情景描写が秀逸で、それぞれの場面の風景が眼前に広がり、現在もよく聞く地名が随所に出てきて、うれしさが倍増した。栄田や福田や長田、井崎や宇良、小江や田結などその名を挙げればきりがない。
小説冒頭は、西郷家の姫の梨緒が小野の金毘羅岳で山芋を掘る場面であり、迎えに来た近習頭の服部佐内と修道士のサンチェスを従え、馬を駆って颯爽と高城に戻る場面に心躍る思いがした。
また、私が住んでいる目代も、その名が登場する。籠城に参集してきた目代村と菅牟田村の名主が、目代山の入会権で喧嘩を始めるくだりである。明日は戦で命が危ないかも知れないという緊迫した場面で、なんとも呑気なことだが、武士たち支配者階級とは根本において生き方が違う百姓たちの強かな姿が活写されており、伊佐早に暮らした多くの名もない者たちに注がれる野呂さんの温かい眼差しに触れる思いがした。
実は目代の山林の入会については、その昔菅牟田ではないが金屋町と対立し、双方が一触即発の大喧嘩になりそうな危機があったのだと父から聴いていた。もしかしたらその話を、野呂さんがどこかで聴かれたのではないかと思ったりしている。
『落城記』で私が一番好きな場面は、梨緒が初めて一人で馬を駆って早朝の有明海沿いに遠出をするくだりだ。梨緒が馬を責めて海の中に入る荒々しい描写と迸るような生娘の熱量が読んでいる者を酔わせる。
このとき、梨緒は西の高城の上に儚げな月を見、頭を巡らして東の海上に夥しい光をばらまいて昇りつつある朝日を視る。滅びようとする西郷家の命運を月に重ね、攻めてくる龍造寺家を昇る朝日になぞらえていることは明らかで、その後の両家の命運を暗示させた描写に言葉を失くすほど感動した。
この『落城記』のテレビドラマ化に奔走したのは、直木賞作家の向田邦子氏である。向田氏は勧められて読んだ野呂の『諫早菖蒲日記』に甚く感動され、最初はそのドラマ化をテレビ局に働きかけるが、戦闘や恋愛のシーンがないなどの理由で渋られ、先に『落城記』をドラマ化することになり、その次に『諫早菖蒲日記』に取り掛かるつもりで、その脚本は自ら手掛ける予定であったと聞く。このドラマは向田氏が手掛けた初のプロデュース作品であったが、放送予定日の昭和56年10月の二か月前にフィリピンでの飛行機事故で亡くなってしまわれ、この放送を見ることは叶わず、遺作になってしまった。
野呂さんが急死されたのが昭和55年、もっと早く作品に出会っていれば生前にお会いすることもできたものをと悔やむが、野呂さんとはこれからも、その作品を通して諫早のことを語り合っていこうと思っている。
※この随想は、野呂邦暢氏を顕彰する『諫早通信』デジタル版第21号
(https://file.www2.hp-ez.com/isahaya-bunka)に寄稿したものに、加筆
、修正した。
※冒頭写真は、梨緒が馬を責めて有明海に入った舞台と想像する諫早市高
来町水の浦の「すくい」の浜から諫早湾越しに雲仙を見る。
※「すくい」とは、満潮と共にスクイに入った魚が引潮に従いオログチ
(スクイの最深部)近くの遊水池に集まるようにして捕獲する仕掛け。
※調べてみると、ドラマ『わが愛の城ー落城記より』は昭和56年10月に
テレビ朝日で2時間スペシャルとして放送されている。私が見たと思っ
ている昭和59年は再放送であろうと思うが、現在では確認しようがな
い。もし再放送されていないのなら、昭和56年は私がまだ大学生の
きに見たことになる。そうすると、私が諫早に帰ったのは、このドラマ
の影響だったのかもしれない。
※「伊佐早」は「諫早」の古い表記。西郷一族を滅ぼした龍造寺家は、江
戸時代初めに姓を『諫早』に改めたため、それ以後この地方の地名も
「諫早」と表記するようになった。
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