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「胃ろうをひっこ抜いてくれ」と訴える患者さんの話



「先生へ、ハラの胃ろうのパイプをひっこぬいて下さい」

これは、とある入院患者さんが震える手で書かれた衝撃の告白です。


(患者さんから掲載の許可は得ておりますが、プライバシー保護のため設定は微妙に変えてあります)。


実はこの方、僕ととてもご縁のある方。
以前、僕がよく訪問診療でご自宅に伺っていた方です。

70代男性、若い頃から慢性の神経疾患があり体は不自由でしたが、それでもご自宅で一人暮らしをされていました。
障害はあっても頭脳明晰、漢方の大家で、著書も出されています。

訪問診療のたびに笑顔で語ってくれたのは、宮崎の実家でお父さんが脳梗塞で亡くなった時のこと、鹿児島の今の自宅でお母さんを看取った時のこと。

僕が、不勉強な漢方薬の使い方について尋ねると、優しく講義してくれる、良き同業の先輩でもありました。

僕の転職でここ2年ほどはご縁が切れてしまったのですが、 どうやら、数カ月前に突然の脳梗塞に倒れ、救急車で運ばれた先の急性期病院での療養の後、僕が勤務していたその慢性期病院へ転院となったということでした。


再会した時、彼の口はほとんど動かず、表情も乏しく元気がないご様子。
以前はなんとか自力でトイレまで行けていたのですが、もう今は完全に寝たきりのようです。

僕は恐る恐る、「◯◯さん、元気?」と語りかけました。

そのとき、彼は目を丸くして驚いてくれました。遠目での印象では勘違いしそうでしたが、どうやら明晰な頭脳は以前のままのようです。

でも、ろれつはうまく回りません。

なんとか手は動くようだったので小さなホワイトボードを出してみると、震えながらも動く右手で、ゆっくりと字を書こうとされました。
でも、その字はなかなか読み取れません。
その日、彼は目だけで返事をしてくれました。
脳梗塞の後遺症はどうやらかなり手ごわそうでした。

しかし、なんと彼はその後の懸命のリハビリで劇的に回復したのです。

たったの数週間後で会話も書字も上達し、しっかりと意思表示ができるようにまで。さすがの回復力。

「これなら食事も口からどんどん食べられるかな〜」

そう思っていた矢先、彼が僕に向けて書いたのがこの言葉だったのです。


「先生へ、ハラのイロウのパイプをひっこぬいてください」


僕はそのあからさまな告白に言葉を失いました。

「ひっこぬく」という表現には、明らかな嫌悪感が込められています。
しかし、だいぶ口から食べられるようになったとはいえ、食べられる量はまだまだ十分とは言えません。

僕は言いました。

「◯◯さん、足りない栄養はどうするの?」

彼は震える手で続けました。

「イロウを抜いたあとははなの管を入れれば良いと思います。(そもそも)イロウをしたら自宅へかえす、しないと施設に入れると言われた」

どうやら彼は、前の病院の医師かスタッフに「騙された」と思っているようです。彼は続けます。

「あのときは高熱で頭がボーッとしていました。ふつうなら法務局人権擁護課にれんらくしたと思う。(これを)公開する」

ことの真偽の程は分かりませんが、とにかく彼は、


自宅に帰りたい
 ↓
そのために胃ろうに同意した
 ↓
なのに帰れない
 ↓
騙された


と思っているのです。その上でいま僕に「胃ろうを抜け」と言っているのです。



さあ、こんな時、我々医療者はどうすればいいのでしょうか? 

「医学的な正解」という意味で考えれば、「可能な限り自由に口から食べてもらいながら、それでも足りない栄養分を胃ろうからの注入で補う」

多分、これが正解でしょう。

仮に自宅に帰ったとしても、胃ろうを入れておいたほうが介護・看護はやりやすいでしょうから。

では、その「医学的正解」を患者さん本人が拒否したら?

おそらく一般的な医療現場では、まず、


「医学的な正解についてしっかり説明する(そして納得してもらう)」


という方向に動くでしょう。 実際、すでに病棟のスタッフの間ではそんな空気になりつつありました。

でも待ってください。たぶん、前の病院のスタッフが、

「おなかに胃ろうの管を入れてきちんと栄養を補給する」

という完全なる医学的正解を遂行した時も同じだったのではないでしょうか?

今と同じような流れで前の病院でも「説明・説得」を行った結果、「騙された。公開する」ということになったのでは? となると、今回も同じ展開になるのではないでしょうか……。本当に医療は難しいですね。

第一、頭脳明晰な彼のこと、そんな医学的正解は重々承知。それでも胃ろうを抜けと言っているわけです。ますます悩ましいですね……。


しかし、どうして彼はそんなことを言うのでしょう? 

何度も何度も考えて、悩んだ結果、僕はこう思うようになりました。


「タバコだって体に悪いってみんな知っているけど、それでも吸うのは自由。太っていたら健康に悪いってわかっていても、美味しいものを食べるのは自由。オートバイで転んだら死ぬかもしれない、それでも乗りたい人は乗るし、バイク屋さんではバイクも売っている。みんなリスクを承知で、自分の責任で人生を選択し、楽しんでいる。それが人生というもので、全部が全部、正解を押し付けられたら窮屈。でも医療の世界では、ある日運悪く患者になった瞬間になんでも医学的正解や医療側の理屈に従わされる。拒否すると『問題患者』と言われる。患者さんの思いに配慮することよりも、医学的な正解で患者さんを『支配・管理』して、強権的に決めるのが普通になってしまっている。彼のおなかの『胃ろうの管』は、そんな医療による「支配・管理」の象徴、いやそれに屈した『敗北の象徴』だったんじゃないかな。 そんなものが自分の体にいつまでもあったら、いい気はしないよな」


…結果として、彼は自宅へ帰りました。もちろん、胃ろうの管も抜いて。

その時の笑顔がこちらです。



とはいえ、今後彼がまた食べられなくなるかもしれません。そのときどうしましょう?

事実その後、彼はまた誤嚥からの肺炎を繰り返すようになりました。

何度も何度も熱を出し、自宅で抗生剤の点滴をし、それでも彼は最期まで「胃ろうの管」を入れず口から食べることにこだわりました。そして、最後は病院に入院しましたが、出来る限り自宅での生活を継続し、亡くなられました。

皆さんはこの結果をどう思われるでしょうか。

医療従事者の方々でしたら、「歯痒い思い」を感じられるかもしれません。もしご家族の立場でしたら、「どんなことをしても生きていて欲しい」と思われるかもしれません。そしてそこにエビデンス(過去のデータから得られた医学的正解)はあるでしょう。しかし、たとえどんな状況になっても、彼の人生にとっての正解はまた別にあるのかも知れません。

今回のように、医学的正解と患者さんの思いがまったくの逆だった時、僕ら医療者はどうすればいいのでしょう?

僕らは彼に対してどう向き合えばよかったのでしょうか?

いま、僕は思います。


「患者さんの人生の選択はその人本人の課題であって、我々医療従事者の課題ではないのではないだろうか?

それでも我々は決して見放すことなく、その人の選択にしっかりと向き合って、寄り添って、支援する。

正解がわからなくなった時、それがいちばん大切なことなのではないだろうか」



昨今話題になっているACP(アドバンス・ケア・プランニング)も、SDM(シェアド・デシジョン・メイキング)も、本来の意味はそこにこそあるような気もします。

本人・ご家族の決定を尊重しながら、揺れる想いにもしっかり寄り添って最期まで支援する。決して「同意書をとって終わり、そのためのACP」のようなことがあってはならないと思います。


僕ら医療従事者はそこまで思いを馳せなければ、本当に患者さんが満足する医療を提供できないのかもしれません。


医療は、本当に難しいです。正解なんてない。

でも、だからこそ面白いし、やりがいがある。

そこまで考えることが本当の「患者中心」の医療なのかもしれません。


この記事は、過去のブログ、また拙著「医療経済の嘘」に掲載されたものを一部加筆修正し、note記事にしたものです。



ぼくの本

財政破綻・病院閉鎖・高齢化率日本一...様々な苦難に遭遇した夕張市民の奇跡の物語、夕張市立診療所の院長時代のエピソード、様々な奇跡的データ、などを一冊の本にしております。
日本の明るい未来を考える上で多くの皆さんに知っておいてほしいことを凝縮しておりますので、是非お読みいただけますと幸いです。



著者:森田洋之のプロフィール↓↓

https://note.mu/hiroyukimorita/n/n2a799122a9d3


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夕張に育ててもらった医師・医療経済ジャーナリスト。元夕張市立診療所院長として財政破綻・病院閉鎖の前後の夕張を研究。医局所属経験無し。医療は貧富の差なく誰にでも公平に提供されるべき「社会的共通資本」である!が信念なので基本的に情報は無償提供します。(サポートは大歓迎!^^)