〜書き残したあの風景〜 『昭和から届いた手紙』 【湧網線知来駅】(vol.1)
【写真集 P.182〜187 /平成19年執筆】
『昭和から届いた手紙』
〜国鉄湧網線知来駅回想~
(vol.1)
《プロローグ》
始まりは一通の古い便せんだった。
押入れの段ボール箱にしまってあった古い手紙の中から、
妙に懐かしい便せんを見つけた。
色あせたうす茶色かがった白い便せんの裏には、
流れるような達筆で、 “北海道佐呂間町知来 川村恭仁子”とあった。
《本文》
それは、私が鉄道少年として全国各地のローカル線を乗り歩いていた頃、廃止間際に訪れた国鉄湧網線知来駅前にあった川村商店の夫婦からいただいた手紙だった。
サロマ湖の西、中湧別と網走市を結んでいた全長89.8kmの国鉄湧網線は、サロマ湖・能取湖・網走湖のほとりをぬうように走り、車窓の美しさでは道内随一とまで言われた風光明媚な路線だった。知来駅は網走駅から網走湖・能取湖を眺めながら、オホーツク海沿岸へ抜け、常呂町(現北見市)から10kmほど内陸へ入り込んだ小さな盆地にあった。
まもなく消えてゆこうとするローカル線を撮り歩く中、知来駅前に一軒だけ残る川村商店を何度となく訪れ、いつしか言葉を交わすようになった。
海あり、湖あり、山あり、そして緑に包まれる草原の丘ありと、鉄道の風景を凝縮したような湧網線の撮影に私はのめり込んでいたが、湧網線“臨終”の瞬間は刻一刻と近づいていた。
昭和61年、高校3年生の夏。
湧網線最後の夏が終わろうとしていた。
国鉄の分割民営化、JR発足を前にして、北海道内の赤字ローカル線が次々と最後の瞬間を迎えてゆくなか、湧網線廃線の日が決まった。
“昭和62年3月19日”
自分と同じようにローカル線を巡る友人と、湧網線最後の朝は知来駅で迎えようという話になった。
廃線の前日、3月18日の夜、友人のN君とY君と網走駅で合流、中湧別行きの最終列車に乗り込み、知来駅に降り立った。辺りは一面の雪。寒さが身体の芯まで伝わってきた。
いつものように川村商店に顔を出し、あいさつをした。
「今晩は知来駅に泊まります~!湧網線最後の夜は、知来駅でシメますよ!」と笑うと、 「寒くないかい? 待合室のストーブ使っていいからね」と優しいおばさんの声。
「ありがとうございます~」
駅の待合室にゴザをひき、3人で車座になり、湧網線の数々の思い出を語り合っていると、川村夫妻がなにやらゴソゴソと音を立てながら待合室に入ってきた。手には、練炭やら金網やらさまざまなものが・・・。
「夕飯まだでしょ?ジンギスカン食べなさい~。今日は知来駅最後の夜だから、ジンギスカンパーティーやりましょう!ビールもあるから飲みなさい(笑)」
僕等は当然、未成年!! でも、そんなことをとやかく言うような時代ではなかった。 今よりもずっとのどかな時代だった。ビールを飲みながら、食べきれないほどのジンギスカンを食べ、暖かな石炭ストーブの灯を眺めながら、湧網線最後の夜は、最高の思い出を僕等にくれた夜となった。
色褪せた手紙を読み返しながら、楽しかったさまざまな記憶が甦ってきた。
今年は平成19年。あれからもう20年以上経ったのか・・・。
昭和が終わり、平成もあと1年で20年。
インターネット・ケイタイ電話etc.“平成”という時代と、“昭和”という時代は、全く異質なもののように思い返される。あのころに感じた“温もり”が妙に美しくかけがえのないもののように懐かしく感じられるのは私だけだろうか。
こぼれるような優しい笑顔でいつも僕たち貧乏旅行者を迎えてくれた、あの川村夫妻はどうしているだろう。
あれから20年、当時50歳前後だったであろう川村夫妻は、今は70代。
健在だろうか・・・。
〔「昭和から届いた手紙」vol.2 へつづく (12月12日掲載予定) 〕