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【台湾の面白い建物】寶藏巖の物語(その一)

台湾では、たくさんの眷村が軍人の宿舎としての役目を終え、それぞれの地域の文化施設、あるいは地域開発の観光の拠点として整備が進んでいます。
ここで紹介する寶藏巖も、それらの眷村と同じ様に見えるかもしれませんが、この建物群は眷村とは基本的に異なっています。

ここでは、その建物群の成り立ちの違いを説明すると同時に、一旦は台北市により危険な集落と認定され、解体撤去される運命であったものが、どの様にして今の形で使われる様になったのか、その経過を見ていきます。

清朝から日本統治時代まで

寶藏巖には集落の中心として、"寶藏巖觀音亭"という寺があります。入り口から入ると、一番手前ですね。これは、17世紀の清の時代に入ってから、閩南人によって建立されたものだそうです。
このお寺に"嚴"の文字を使うのも、閩南人の漢字の用法によるとのこと。観音寺のことを、閩南語で"觀音嚴仔"と呼んでおり、その習慣から現代の台湾でも"嚴"の文字を使っています。"嚴仔"は山にある洞穴と言う意味なのだそうです。ですので、嚴仔は平地にあるものではなく、山の中に設けられた寺や廟のことなんですね。
この寶藏巖以外には、僕は淡水の"清水巖"を見学したことがあります。こちらは道教の廟です。

下に日本統治時代の写真を紹介しますが、この時点では"寶藏巖觀音亭"があるのみで、周辺にはほとんど建物は見えません。今でも山の中にある寺では、寺院だけが立っており、世俗からは離れた環境になっていますが、もともとはその様な佇まいだったわけです。

日本統治時代の寶藏巖

国民党の来台と共に

第二次世界大戦が終わり、台湾が中華民国の元に統治される様になりましたが、その時点では寶藏巖にはそれほど多くの人家はなかったそうです。この付近は日本統治時代でも軍の管轄地で、中華民国の時代になっても1950年代初期までは、その状態が続いていました。
1960年代に入り、国共内戦の緊張状態も緩和され、中華民国軍もこの付近の土地の管理を緩和し始めました。そうしたところ、この場所に多くの人々が住み着く様になりました。この人々は、寶藏巖の信徒というわけではなく、国民党の退役軍人(榮民と言います)やその家族が主だったそうです。
この土地はそもそも国有地であり、そこに正規の手続きによらず、これらの人々が勝手に住居を建てて住み始めています。ですので、これらの住宅は、ほとんどが居住者自らがセルフビルドで建てた、違法建築だったそうです。聞くところによると、基本的な構造は、自ら土台を作り簡単な鉄筋コンクリート造で作ったものの、さすがに給排水と電気設備は専門業者を頼んで施工してもらっているそうです。

この場所に、この様な違法のバラック建築が立ち始めたのは、元々軍の管轄地で背後の山と新店溪に挟まれ、あまり使い道のない空地だったからなのではないかと考えています。南に面して日差しが良いとか、川沿いで気化熱のため、空気の流れが出来やすいということもあるかもしれません。
台北市内には、寶藏巖以外にもこの様な違法建築のバラックが建っていた場所があります。今は大安森林公園や林森公園となっている場所ですね。これらの場所にあった違法のバラックの建物は、1990年代には全て解体撤去されて、公園として整備されています。

1960年から1980年にかけて、この様にして寶藏巖には住民が増え続け、集落が形成されていきました。

眷村との違い

上記の様な経緯で、自然発生的に国民党系の退役軍人とその家族が主体となって、寶藏巖が作られていきました。この経過は、眷村の形成とは大きく異なっています。
眷村は、同じ時期に作られた中華民国政府の資金による宿舎と、日本軍が残していた官舎群です。ですので、いずれも国の予算で作られ、そして管理されている軍人用の宿舎になります。もちろん、所有者は国になります。
ですので、眷村に住んだ家族にとっては、そこは軍人である限り住むことを許された、仮の住まいになります。国からの指示があれば、別の眷村に行かなくてはならないし、そもそも退役したら、眷村には住めないかもしれません。

それと比べると、寶藏巖は敷地は国のものですが、その上に建てられた住宅はセルフビルド、個人の所有物と言っても良い物になります。ですので、住んでいる人々はそのまま住み続けていたし、そのためにこの場所にはとても濃密なコミュニティーができていたと聞いています。

その様な特殊な集落が、この寶藏巖の地につくられていきました。

台北市により撤去街区と指定される

しかし、寶藏巖は、この様な経過を経て形成された集落です。土地は国のものであり、建物は戦後に建てられた違法建築。この様な集落をどうすべきかと台北市が検討した結果、寶藏巖のこの違法建築群は解体撤去すべきであるという結論に至りました。そして、この場所を新店溪沿いの親水公園として整備することにしたのです。
台北市としては、この建物群が付近の街並みとあまりに異質なこと、新店溪の辺りに建っており河川の水質に悪影響を与えることなどを理由に解体撤去を決定しています。
この同じ時期に、台北市の他のバラック街区が軒並み撤去解体の決定を受け、実際に多くがその様に処理されています。

住民による陳情活動

1980年に、台北市によりこの様な決定がなされましたが、それと同時に寶藏巖の住民による陳情と反対運動が持ち上がりました。それは、この建物群が彼ら自身の手で作られ、20年に渡って彼らの生活を支えてきた"家"だったからでしょう。住民にとってはとても思い入れが深く、壊すに忍びなかったのでしょう
そして、この寶藏巖におけるコミュニティーがとてもしっかりした、強固なものであったことも大きな理由なのだと思います。そのために、住民の力が合わさって一つの運動になった。このことは他のバラック集落とは異なった特徴と思われます。

1993年、台北市はこの地域内の建物の撤去を指示しました。しかし、寶藏巖の住民の熱心な陳情により、一旦この作業は取りやめになります。一方、親水公園の部分は1995年に完成し、永福公園と名付けられました。
そして、1997年になり台北市は、寶藏巖の集落を残す様、政策の方向転換をします。

何故、寶藏巖は残されることになったのか

寶藏巖のことを知ってから、この集落に関する本を何冊か読んでいます。今回改めて調べましたが、この場所が残されることになったのは、何よりもここの住民による熱心な陳情に、台北市が動かされたからであると分かりました。それがスタートにあって、後に台北市や台湾大学を巻き込んだ文化活動に展開していきます。

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