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学生時代のヨーロッパ旅行(その二十五、ユーゴスラビア)

40年前のヨーロッパ旅行では、ソビエト連邦は健在で、東ヨーロッパはソビエト陣営。日本のパスポートを持っていると、西ヨーロッパはビザなしで自由に入れましたが、東ヨーロッパへの入国ははビザが必要でした。
ここまでの旅行で、共産圏に入ったのは東ベルリンだけでした。この当時、東ベルリンに観光で入ることは簡単で、西ベルリンから一日分の旅費を両替さえすれば、それで入国できました。

この当時のユーゴスラビアという国は、西側諸国とは少し距離がありましたが、ソビエト連邦の支配下にある東側諸国とも異なり、ある程度の自由があり、ビザなしでも入国が可能でした。それに加えて、Tiptreeの経営者の奥さんがユーゴスラビア出身者で、農園で働いていた若者にはユーゴスラビアの人間も多く、友達もたくさんいました。
そんなわけで、イタリアを離れて最終目的地のアテネに行く途中で、ユーゴスラビアにも立ち寄ることにしました。

ただし、この国に関する情報は全くなく、行き当たりばったりの旅行になりました。今考えると、ネットの情報も観光ガイドもない状態で、友人の住所と電話番号だけを頼りに、よくユーゴスラビアまで出かけたものだと思います。若干怖いもの知らずですね。

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国

この記事を書くためにあらためてユーゴスラビアのことを調べてみると、僕がこの国を旅行した1985年時点では、この国は"ユーゴスラビア社会主義連邦共和国"であったと書かれています。その後1992年に"ユーゴスラビア連邦共和国"になっています。社会主義の文字がなくなっています。この時点で元々のユーゴスラビアが分割して複数の国家になっているわけで、それはその後の紛争によりさらにいくつかの国に分かれています。

僕はこの時、ユーゴスラビアのうちイタリアに最も近いスロベニアの首都リュブヤナを訪ねました。

リュブヤナ

Tiptreeでよく話をした友人にブランコ君がいます。なぜかしら日本にとても興味を持っていて、日本の歴史を尋ねてきたり、日本人は何故RとLの発音が区別できないのかと、当時の僕の英語力では説明が困難な問題をいろいろ投げかけてくるのです。彼はなぜそんな難しい話をしてくるのか少し不思議に思っていましたが、彼の家を訪ねて謎が解けました。
彼のお父さんは都市計画を専門にしている建築家だったのです。ある種の知識人ですね。その息子であるブランコ君もお父さんの薫陶を受けて、文化的な面にいろいろ興味を持っていたようで、イギリスの農場で僕を見つけていろいろ議論をしたのでしょう。

彼の家で食事をしたのですが、そこでの話題がこのリュブヤナという都市の成立ちについてだったのを覚えています。そのころの僕は都市計画についてはほとんど知識を持っておらず、議論になることはなく、まるで大学の先生の授業を聞くかのように、お父さんの話を拝聴しているという様子でした。

リュブヤナの街は、街の中心にある橋が発展のきっかけになっていると説明を受けた記憶があります。それ以上の詳細は覚えていませんが、街のことを説明するのに、都市の歴史からアプローチするというのがとても新鮮だったと覚えています。
今で言うと、まるでプラタモリの様な内容ですね。陣内秀信先生がヴェネツィアで学んだのも、その様な都市史のアプローチだったのでしょう。

リュブヤナのドラゴンブリッジのついてのwikipediaの紹介がありました。そんな名前がついているのですね。

また、Tiptreeにはとても好ましい感じのユーゴスラビアの女性たちがいて、彼女たちもリュブヤナ出身だったので会うことができました。アンドレア、ドミニカ、エマの3人です。皆すらりとして、髪は金髪で美人だけれど、とても素朴な感じの女の子たちです。このスロベニアの人たちは、イタリアの北部の人たちと印象は似ていました。でもイタリアの人たちよりも若干背が高いようで、小柄な人はあまり見ませんでした。

リュブヤナでは、彼らに連れられて街歩きをし、食事をしました。3か月にもわたる旅行の後に、イギリスから遠く離れたユーゴスラビアの、日本では聞いたこともない街で、たくさんの友人と会って話をすることができるということが、とても不思議でした。

ドラゴンブリッジ前の広場

ベオグラード

旅行はようやく終盤に差し掛かり、1カ月後のアテネからのフライトを目標にスケジュールの調整をしなくてはなりませんでした。

ユーゴスラビアには、アドリア海の真珠と呼ばれるドゥブロヴニクという要塞都市があるのですが、ここまで足を伸ばすと時間がかかりすぎると判断し、リュブヤナからはまっすぐトルコのイスタンブールに向かうこととし、長距離列車で東に向かうことにしました。そして、とりあえず目標をベオグラードにしました。
この時のユーゴスラビアの連邦国家としての首都はベオグラードでした。ですので、トルコに入るまえにベオグラードを見学しようとしたのです。

しかし、ベオグラード駅を出たときの印象がとても良くなかった。これは、アイルランドのダブリンに着いた時の印象とよく似ていました。なんとなしに街がとても暗いのです。原因は分かりません。同じユーゴスラビアでもところ変われば、民族も言語も文字も変わるという複雑な連邦国家なので、同じ国といえども別の世界に入ったようなものなのでしょう。
ですのでこの街には滞在せず、そのまま東に向かう列車に乗ることにしました。

ユーゴスラビアの先にはブルガリアがあります。この国は社会主義国家でソビエト連邦の支配下にある国でしたので、入国にはビザが必要でした。ですので、ベオグラードからはブルガリアをそのまま通過、トルコに入る計画にしました。

因みに、このヴェネツィア/ベオグラード/イスタンブールと言う路線の鉄道は、複数あるオリエントエクスプレスの一つです。ヨーロッパ大陸の東端がイスタンブールなので、西ヨーロッパの主要都市から、イスタンブールに向かう国際列車のことを、オリエントエクスプレスと呼んでいます。

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