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2018年3月、厦門にて

2018年2月に日本の設計事務所を退職し、4月に新しくコンサルタント会社で仕事を始めるまで、1ヶ月の休職期間のうち2週間を使って中国に旅行に行ってきました。目的は、台湾人の故郷とも言える中国福建の地をきちんと見ておきたいということでした。

そのために、台北から飛行機で金門島に渡り、そこからフェリーに乗り厦門に入るという計画を立てました。

国内線フライトは台北に逆戻り

午前便の成田からのLCCのフライトは、昼に桃園空港に着き、そこからMRTで台北に移動。飛行機は夕方の便なので、松山空港に直行して荷物を預け、台北の街を軽く観光しました。
夕方のフライトは無事飛び立ち、僕は朝からの移動に疲れ果て飛行機の中でぐっすり寝てしまいました。周りが騒々しくなったので、僕も起き出して飛行機を出ました。周りは真っ暗でしたが、遠くに高層ビルが見え、ああ金門島は大きな街なんだなと思いゲートを出ました。
飛行場を出て外を見ると、巨大な建物を発見。あれ、あれは101ではないか?そこまで来てようやく気が付きました。飛行機は金門島に降りれず、台北にUターンしていたのです。
金門島へのフライトは霧のため着陸できないということがよくあるそうです。それは、この後に知りました。

突然二泊することになった台北で

金門への再フライトは翌日のものが取れず、一日おいて飛ぶことになりました。スケジュールの調整は、金門での滞在を減らすこととしました。金門の2泊の予定を全てキャンセルし、金門に着いた日にそのまま厦門に行くことにしました。

そのため、空いた一日を使って台北で過ごすことにしました。僕の趣味は本屋巡りですので、一日で3軒の書店を回って10冊ほどの本を購入。帰りの台北ではそんな時間は取れないだろうからと、荷物になることは覚悟のうえでの購入でした。

その翌日、今度は午前中のフライトだったので寝ずに済み、起きたまま無事に金門島に着きました。そしてタクシーに乗って厦門へのフェリー乗り場に向かいました。フェリーの中は簡体字仕様で、もう中華人民共和国という様子でしたね。30分ほども乗ると厦門に着きました。

金門に到着した飛行機

厦門での入国手続きでトラブった

僕はそれまで、中国には30回ほど入国しています。建築設計事務所での仕事で、北京・天津・瀋陽・上海・泉州・台州・広東・深圳・東莞等に出向いたことがあったからです。それ以外にも私的な旅行で温州・大連などにも行ったことがあります。いずれも特に問題はなく、少し中国人の図々しいやり方に不快感を募らせたことがあったくらいでした。それで、この2週間の旅行の際も特に気にせず、ごく気楽に出かけました。
しかし、この日初めてトラブルに見舞われました。

荷物検査に進むと、公安のバッジをつけたお姉さんが、荷物を開けろと指示をしてきました。初めは単なる検査の一環だろうと思い、少し離れた検査台に移り、僕は言われるままにスーツケースを開けました。
彼女は僕のスーツケースの中にある幾冊もの本を指して、これは何だと尋問を始めました。直前までは普通の気分でしたが、その時しまったと気が付きました。ここは言論の自由のない国、中国だったのです。政治向きに不穏な材料となる本は禁書となる国です。香港では多くの本屋さんが、出版を禁止され、書店主が連行されるというニュースもありました。軍事的な要地で不用意に写真を撮った日本人が連行されるというニュースも聞いていました。これは、まずくすると、ここで囚われの身となるかもしれないと、頭の中では覚悟を決めました。

彼女は、本を1冊1冊確認しながら、質問をしてきます。口調は優しいものでもなく、尋問という厳しいものでもなく、ひどく淡々としたものでした。厳しい目つきは僕にではなく、本の方に向いていました。周りには誰もおらず彼女と一対一での会話は20分ほど続いたでしょうか。僕はできるだけ落ち着いて、自分は中国の明朝末期の歴史に興味があること、また台湾の歴史にも興味があってそのために福建に旅行に来たことなどを説明しました。

幸いなことに、僕の持っていた本は説明の通り明朝や倭寇に関するもの、台湾と福建の地方史に関するものばかりでした。彼女はすべての本を確認して、分かったというように頷きました。その時初めて僕の方を見ました。その目は、僕に危ないことをするなと言っているように思えました。

仮に、この時に持っていたものが国民党や共産党に関する現代中国史に関する本、時事的な内容のものだったりしたらどうなっていたのか、今考えてもぞっとします。

2週間後

厦門に一応無事に入ることができ、その日のうちに中国の高速鉄道に乗り福州まで移動しました。そして、2週間かけて泉州、晉江、厦門、漳州を回りました。各都市で3泊ほどづつ、福州から南への移動は長距離バスを使いました。
この台湾のルーツ探しの旅は、それなりの収穫がありました。それぞれの街が台湾との深い関係があることを知り、中国人の立場に立つとああいう物言いになるのかもしれないと納得するところもありました。

帰りは、来るときと同じルートで金門行きのフェリーに乗りました。フェリーの待合コーナーで座っていると、乗客の一人が中国語で話しかけてきました。僕が中国語で返事をすると、訛りで僕が日本人だと分かったのでしょう。彼は「ああ、日本の方ですか。ごくろうさまでしたね。」と日本語で話しかけてくれました。彼は台湾人のビジネスマンだったのでしょう。この時点で台湾と中国の間の観光は冷え切っており、このフェリーを使っていたのはほとんど台湾人でしたので。
この日本語を聞いて、僕は不覚にも涙を流していました。ああ、これで僕は台湾に帰れるんだと緊張感がほどけたのだと思います。入国の際に怖い思いをして、その後の二週間の個人旅行は、自分ではそうは感じてはいませんでしたが、それなりに緊張をしていたのでしょう。それが、日本人のことを快く思ってくれている台湾に戻るのだと、無意識に考えて安心した。そういうことだったのだと思います。



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