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【台湾の水利施設】桃園大圳

日本統治時代の水利施設として嘉南大圳が有名ですが、それに2年先立って桃園の地にも農業用水路が建設されています。2021年にこの桃園大圳のことを知ってから、台北からは身近にアクセスできるので何度かこの地に視察に行っています。今から100年前に、台湾で行われた公共の水利工事のひとつです。


農業には適さなかった桃園台地

大漢溪の説明で書いた様に、桃園台地には元々大漢溪が流れ込んでいて、この土地を潤していたはずです。しかし、河川の侵食で大漢渓の水がこの地に来なくなってしまい、とても乾いた土地になってしまいました。現在桃園にはたくさんの溜池が残っており、環境遺産として見直されていますが、これはもともと水不足になりがちなこの土地に、水を溜めおこうという意図で、清朝統治時代に漢民族の移民が人工的に作ったものです。

しかし、この溜池による対策では近代的に管理された農業を経営することは困難です。清朝の時代には、3年に一度は旱魃の被害にあう土地であったと記録されています。

桃園大圳

日本の統治時代が始まると、台湾の土地を開発するための水利事業は取り掛かるべき重要な公共工事になりました。それに先立って上水道の工事が進んでいますので、台湾総督府には水利に関わる土木技術者が潤沢にいたのかもしれませんね。

桃園大圳のアイデアは、こうです。大漢渓の水が桃園台地に行かないのが問題なので、川上の高いところで取水し、緩やかな勾配で大漢渓左岸を越えるところまで持っていき、そのままそこから桃園台地に水を引き込む。
具体的には下記の図面を見ると分かりますが、石門水庫の水を延々と鶯歌の辺りまでもっていっています。そこまでいかないと、大漢渓左岸の丘陵部を越えられず、桃園台地に農業用水路として利用することが出来なかったのでしょう。

Wikipedia で下の地図を見つけたので、台北からだと一日で行って帰れる距離だと、この桃園大圳の様子を見学に行くことにしました。2021年12月のことです。

桃園大圳工事平面図

桃園大圳の取水口

この農業用水路の取水口は石門水庫の足元にある後池の北側にあることは、Google Mapで検索すると分かりました。ですので、そこまでまず行ってみることにしました。石門水庫行きのバスは龍潭から出ており、大漢渓の右岸にある渓洲まで行くので、まずそこに向かいました。

後池下流部の地図

渓洲側から見ると取水口の様子は下の写真のように見えます。右側の道路は大漢渓の水を堰き止める堤防になっていて、この高さに水面を維持して安定した取水ができるようになっています。

堤防の水上川
堤防の水下側

左岸に移り、取水口の建物を確認しようと思いましたが、建物の周囲は立ち入り禁止となっており、取水されている様子を直接確認することはできませんでした。

取水口の建物

さらにここから先、桃園大圳の水はそのまま地下に入ってしまい、様子は全く分からなくなってしまいました。

しかし、この農業用水路は大漢渓の左岸に沿って鶯歌まで繋がっているはずです。このまま大漢渓に沿って歩けば、いずれ地上に姿を現すだろうと思いそのまま歩いてみることにしました。

打鐵坑溪

取水口を離れ丘陵部を登り、大漢渓の左岸部に入ります。しかし一向に桃園大圳らしきものは現れず、自然河川が流れていました。これは石門山の麓から流れている打鐵坑溪と言い、大漢渓の支流です。
この打鐵坑溪に沿って紅橋とか三坑生態公園という観光スポットがあります。

紅橋
三坑生態公園
打鐵坑溪の様子
高い護岸が設けられているので、川を深く掘ったのでしょう

途中で地上に現れた桃園大圳

この打鐵坑溪に沿った道はサイクリングロードとして整備され、散歩にも適したものでした。

この道路を歩いていくと、突然、河の上を横切るコンクリートの構造物が現れました。その隣には小さな建物が見えます。
更に近づいていくと、これは打鐵坑溪の上にかけ渡された水路であることが分かりました。そして、打鐵坑溪の右岸から左岸に水が流れています。流れて行った先はまたトンネルに吸い込まれていっています。そして、トンネルの入り口には○○大圳と名前が刻まれていました。恐らくこれが桃園大圳なのでしょう。

これで、桃園大圳が川岸の丘陵部に穿たれた暗渠であることが分かりました。平面計画上、この場所で打鐵坑溪を横切っており、そのために地上に現れたのです。
(この様な自然河川と人口の用水路が十字に横切っているシーンを、過去にいくつもの場所で見ているので、これがそのような施設であることがすぐに分かりました。)

打鐵坑溪を横切る桃園大圳の水路
水は改めて地下に吸い込まれていきます。
○○大圳の文字が見えます。

しかし、この後桃園大圳は大渓の街に行くまで歩いても二度と姿を現しませんでした。
その後二ヶ月ほどたってから、改めてこの大漢渓左岸を歩いてみたのですが、その時は桃園大圳の上に流れている石門大圳を見つけることができました。しかし、それは中華民国の時代に整備されたもので、桃園大圳ではありませんでした。石門大圳についてはまた別の回に説明します。

2021年に歩いた時点では、この桃園大圳は大漢渓の左岸を暗渠として地下を流れているらしいと推測しただけで終わりました。

桃園大圳供養塔

2023年5月、改めて桃園大圳跡の探索に出かけました。この時、一つ新しい情報を仕入れていました。それは桃園大圳の供養塔があるということ。それは大渓の街に程近い、大渓橋の左岸側にあります。

この時の探索は、会社の同僚を連れてのものだったので、上に説明したのと同じルートを歩きました。取水口を出発点として、三坑の街を経て、ひたすら大渓の街に向かって歩きます。そして大渓の前でこの供養塔に向かいました。

供養塔は、幹線道路からはかなり上に登ったところにありました。
供養塔の少し前に、地下に流れる水の様子が一部見える場所がありました。それは、桃園大圳そのものでした。この位置でこれだけ大漢渓よりも高い場所に水面がある。それは、鶯歌にまで緩勾配で持っていくのだから、よく考えるとそのはずです。
そして、供養塔と、その裏にこの桃園大圳のことを詳しく説明したパネルがありました。

供養塔の裏面には、桃園大圳工事の事故で亡くなった方々の名前が記されていました。それは55名にも上ります。そこには日本人の名前も台湾人の名前もありました。民族に関わりなく、この工事に命を捧げた人の名前が記録されています。
説明パネルにより、桃園大圳の大漢渓部分の様子が詳しく分かりました。この農業用水路は、計画平面だけでは分からないのですが、石門水庫から鶯歌までの距離の全長の約4分の3、特に上流の方ではその殆ど全てが地下の暗渠になっています。それで地上をいくら探しても用水路を発見できなかったわけです。
大渓の街から下流は、上流に比べるとだいぶ地上に現れている部分が多くなっています。次回はこの大渓の街から下流を鶯歌に向けて歩いてみましょう。

嘉南大圳の建設に先駆けること2年、桃園の大地に穿たれたこの用水路は、大規模な重機を用いたわけではなく、この時代ですから大部分を手掘りでトンネルを掘ったのでしょう。そしてその技術がまだ未熟だったために、何人もの犠牲者を出した難工事になってしまったのでしょう。

供養塔には大正11年10月と記されています。西暦で言うと1922年です。100年前の工事ですね。今もこの用水路は豊かに水を流し、桃園の大地を潤し続けています。

桃園大圳供養塔の位置
供養塔を正面から見る
供養塔の裏に書かれた、犠牲者の名前
桃園大圳の説明があるパネル


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