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【明清交代人物録】洪承疇(その十一)

清軍では皇帝であるホンタイジが松山城の最前線にやってきて全軍の統率を図り、合わせて明軍の補給路を断つという作戦方針を固めます。一方の明軍は、内部の統率力に欠け、最高指導者は遠く北京にいるという状態です。そのため、膨大な人数の軍隊を擁した明軍ですが、有効な戦い方をできませんでした。

松山城、孤立す

ホンタイジは自らの戦争指導で、松山城と山海關の間の補給路を断つ作戦を立てます。これは電光石火の早さで、松山城を巡る堀を作ることでした。錦州城を包囲した作戦を、松山の洪承疇の軍に対して実行したのです。そして、それは一晩のうちに作られたと言われています。それも、三重になった堀です。明軍は気がついた時には、補給線が断たれてしまっていました。

この時、松山城に来ていた明軍にはわずか3日分の糧食しかなかったそうです。速戦即決を是とした作戦であったので、この戦いが長引くという想定をしていなかったのでしょう。そして、その様な状況にあることが明らかになった時点で、明の軍隊は戦闘どころではなくなってしまいました。糧食が足りない、そして補給の期待ができないということで、戦意を喪失してしまったのです。

ホンタイジの作戦は、見事に明軍の弱点をついたものでした。ここから、この戦いは明軍の総崩れになっていきます。

潰散する明軍

そもそも、明の軍隊では指導体制に統率が取れていませんでした。慎重論の洪承疇に対し、積極策の陳新甲。そして、この積極策が裏目に出て伸び切った補給路を断たれるという憂き目に遭ってしまいました。洪承疇はこの様な事態になることを恐れ、慎重論を説いていたはずです。ですので心の準備ができていました。軍をまとめて、松山城から脱出する。大軍団を以てこれを実行すれば、被害は出るとしても、少なからず脱出に成功する兵団は残るだろう。その様に説得を試みますが、既に各軍団は浮き足立ってしまっており、統率の取れない状態になっていました。兵士が言うことを聞かないだけではなく、各将領も洪承疇の指示に従わない。そもそも、この軍には、地方方面軍司令官としての洪承疇の他に、中央から派遣されてきている兵部尚書の陳新甲がいます。この2人での方針の統一が取れなかったというのが失敗の発端で、この緊急事態でも同じ問題が露呈しました。

結果、明軍は三々五々自らの判断で血路を開くことになりました。この時、崇禎帝からは松山城を死守せよという命令が届きます。洪承疇は前言を翻し、死を以てこの責任を取る、松山城に籠城する決意を固めます。
そして、明の各軍団は統制を失い、個別に強行突破を図っていきます、この戦いで、山海関への帰還に成功したのが、後に清朝に対し山海関の門戸を開ける呉三桂です。彼は、この様な危機の中で軍をまとめる能力と、成功を呼び寄せる運があったのでしょう。

死を待つ

この時の洪承疇は、どの様な心境だったのでしょう?彼は崇禎帝の、"松山城を死守せよ"という指示を、額面通りに受け取ります。糧食のない状態で城にこもっても、戦機が覆ることはありません。餓死するのを待つだけです。しかし、それが皇帝の命であるならば、自分はこの地で死のうと考えていたのではないでしょうか。
洪承疇という人物には、スタンドプレー的なところがほとんどありません。組織の中で、自分の役割を全うする。上司の指示には従う。例え、その指示が間違いであっても、それが命令であればそれに則って動く。その様な処世の仕方を感じます。
そして崇禎帝からは、城を死守しろという命令が来てしまいます。皇帝の命がそうであるならば、彼がこの戦場で死ぬまでだと考えても不思議ではありません。陳新甲は、皇帝の命に逆らい戦場からの脱出を図っています。松山城で殉職する有意の将軍が一人ぐらいいても良いだろう。その様にして歴史に名を残そうと考えたのかもしれません。

ホンタイジによる説得

松山城と錦州城がこの様に完全な籠城状態となり、戦争は膠着状態に陥りましたが、ホンタイジはここで戦端を開くことはしませんでした。ホンタイジの視線は、遠く明朝の地を征服した後にやってくる、清朝統治下の世界をどうするかという課題に向いていたのです。彼は、これまでにも明の将領を清の傘下に収めることを折に触れて実行しています。
この松山の戦いで、敵ながら見事な戦い方を示した洪承疇に対し、開城し降参することを説得し始めたのです。

下記の文章が、ホンタイジが松山と錦州の籠城軍に宛てた降伏勧告状です。

「朕率師至此,料爾援兵聞之,定行逃遁。遂豫遣兵圍守杏山,使不得入,自塔山南至於海,北至於山,及寧遠東之連山,一切去路,俱遣兵邀截。又分兵各路截守,爾兵逃甯,為我兵斬殺者,積屍遍野:投海潮水者,不可勝數。今爾錦州、松山救援兵已絕,朕思及此,乃天意佑我也。爾等宜自為計,如以為我軍止圍松,錦,其餘六城末必圍。殊不知時勢至此,不惟六城難保,即南北兩京,明亦何能復有耶? 朕昔徵朝鮮時,圍其王於南漢山,朕詔諭云:「爾降,必生全之。」及朝鮮王降,朕踐前言,仍令主其國。後圍大凌河,祖總兵來降,亦不殺之,爾等所素聞也。朕素以誠信待人,必不以虛言相誑。爾等可自思之。」

《清史列傳》卷78

「あなた方救援軍がここに来たという情報を得て、朕はここにやってきた。そして、今あなた方の退路を塞いでいる。既に兵を派遣し、杏山を囲んでいるし、塔山では南の海まで、北は于山から寧遠の東の連山まで全ての道を絶っており、軍備を整えている。それぞれの道に軍隊を置いてあり、あなた方が逃亡しても、そこで殺されるだろう。海に入ればそこで多くの者が溺死することになるだろう。既に、錦州城と松山城への援軍の道は絶たれている。この様な結果になっているのは、天意は既に我にあるのだと朕は考えている。
あなた方は、自らの生きる道を考えるべきである。我々の軍隊は松山城と錦州城を包囲し続けるが、他の六つの城はそのままにしておく。ことここに至っては、この六つの城をあなた方は守りきれないであろう。遠く北京と南京から、今の明の力ではどうにもできない。
朕はかつて朝鮮を征伐した時、朝鮮王を南漢山に包囲した。朕は「降参しろ。そうすれば命は助けてやる。」と伝えた。朝鮮王は降り、朕はこの言葉を実行し、朝鮮王にそのまま国を治めさせた。また。大凌河を攻めた時には、祖将軍が我が軍に降っているが、彼もそのまま生かしている。あなた方もそのことを知っているだろう。
朕は誠意を持って諸君を迎える。虚言を持って騙す様なことはしない。よくよく考えて、身の処し方を考えなさい。」

松山城では、配下の将軍夏承德が清への降伏を受け入れ、開城してしまいます。ことここに至っては、明軍に抵抗する力は残っていませんでした。清軍は難なく松山城を占領してしまいます。洪承疇は、捕らえられ瀋陽のホンタイジの元に送られます。
その直後、錦州城も降伏します。こうして、2年に渡る松山・錦州の戦いは幕を下ろしました。

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