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台湾湖南料理の謎

僕ら夫婦が台湾で生活を始めた頃、台湾で食べる湖南料理(中国語では湘菜と言います)はとてもあっさりした、広東料理の様に淡白な料理でした。
しかし、大陸に行って驚いた。本場中国の湖南料理は、四川料理に勝るとも劣らない激辛料理でした。

30年前の台湾で

僕ら夫婦の結婚式は台北で行いました。その時、日本から家族や親戚、合わせて14人を呼んで結婚式と披露宴に参加してもらいました。3泊4日のスケジュールで来て、2日目が結婚式と披露宴としたので、3日目は台北観光にして、ちょっとしたツアーの様になりました。

折角台北に来たのだからと、料理はバリエーションを増やして様々なものを食べてもらいたいと考え、台湾料理、四川料理、湖南料理を選びました。披露宴は圓山大飯店でのコース料理でした。
台湾料理は定番の"欣葉"、四川料理のお店は忘れてしまいましたが、湖南料理はその当時でチェーン展開をしていた湖南料理レストランに行きました。

食事をした後に料理の感想を聞いたところ、湖南料理の評判がとても良かった。とてもアッサリした味が、日本の味付けに慣れた人達には受け入れやすかったのでしょう。台湾料理は濃い味付けが苦手だったのか、あまりウケなかったですね。四川料理は日本でも食べ慣れたものだったので、まあまあの評判でした。
この時期に台北で食べた湖南料理は、とても淡白な味付けのもので、野菜や肉の素材の味を出来るだけ引き出す様な、日本料理でいう旨味を重視する様な料理でした。僕もその様な湖南料理がとても好きでよく食べに行ってました。

大陸で食べた湖南料理

それから約10年後、仕事で東京から中国大陸に出張する様になりました。出かける先は、北京、瀋陽、上海など様々でした。そして、中国で本場の各地方の中華料理を食べることになりました。
北京には、勤めていた設計事務所のサテライトオフィスがあり、常駐の設計スタッフもおり、継続的にプロジェクトがあったので何度も出張で出かけました。その際に北京のスタッフが連れて行ってくれる料理屋さんがバラエティー豊かでした。北京ダック、四川料理、清朝の宮廷料理などというのもありました。そして、その中に湖南料理もありました。

北京では、四川や湖南の料理店をよく見かけます。これほ、この地方からの労働者が多く北京に来ているからなのだそうです。そして自らの地方の料理を食べる。肉体労働をする人が多いので、特に味の濃い故郷の料理を好んで食べるのだそうです。
そして、北京で食べる湖南料理にとても驚きました。それは、台湾で食べたものと全く違ったのです。北京で食べた湖南料理は、四川料理に勝るとも劣らない激辛料理でした。中国でもこの二つの地方の料理は、辛い中華料理の代表として有名なのだそうです。これはどうした事だろうだと疑問に思いつつ、辛い料理は好きな方なので、この湖南料理も美味しくいただきました。

何故台湾の湖南料理は中国のものと異なったのか?

それで、何故台湾と中国で湖南料理がここまで違っているのかという事は、ずっと気に掛かっていました。中国での湖南料理が激辛料理だというのは、一般常識で、これが本場の湖南料理だという事は間違いなさそうです。ですので、何らかの理由で台湾の湖南料理はそれとは異なった形に発展したのだと考えました。
そして、台湾の湖南料理の歴史を調べたところ、一人の人物と彼の主宰したレストランのことが浮かび上がってきました。その人物は"彭長貴"、レストランは"彭園湘菜館"と言います。

1933年,彭長貴進入國民政府第一任行政院院長譚延闓家廚體系。譚延闓最講究美食,也因此名聞天下,世稱「譚廚」。彭長貴師承譚廚掌廚人曹藎臣(又書作曹敬臣,人稱曹四爺),後並追隨師於衡陽開設餐館的「玉樓東」任職。

1952年,中華民國海軍總司令梁序昭為接待協防台灣太平洋第七艦隊司令亞瑟·雷德福,連續3天設宴款待,並請彭長貴司廚作菜。為讓重量級貴客能換換口味,第3天彭長貴想出將雞肉斬塊,上漿掛粉、先炸再炒的方式料理雞餚,並以清朝湘軍大將左宗棠為名,發明了「創意湘菜」左宗棠雞

1933年、彭長貴は中華民国政府の初代行政院長、譚延闓家の厨房に入って働くようになりました。譚延闓は美食家として知られており、彼の家の厨房は「譚廚」として天下にその名を轟かせていました。彭長貴はこの譚廚の料理長、曹藎臣の元で料理を学びました。後にこの料理長に付き従い、衡陽に開業した「玉樓東」で働くようになります。

1952年、中華民国海軍総司令の梁序昭が、台湾防御のために駐留していた太平洋第七艦隊司令官Arthur William Radfordを招待し、3日連続の宴会を催すことになり、その宴会料理を彭長貴に料理を任せました。彼は重要な賓客のために少し趣向を変えて、鶏肉に片栗粉をまぶし、二度炒めた料理を考案しました。そしてこの料理に清朝湘軍の著名な将軍、左宗棠の名をつけました。このようにしてオリジナルの湖南料理、左宗棠鶏が考案されました。

その後も、彼は中華民国の御用料理人として活躍し、蒋介石や蒋經國にも食事を提供しています。このような料理人が、1960年代から1980年代に活躍し、アメリカにもレストランを開店して、大いに評判になっています。
その後1983年に台湾に戻り、あらためて湖南料理のレストランを開店。それが"彭園湘菜館"だというわけです。

このような経歴であるとすれば、彭長貴の研究開発した料理は、オリジナルの湖南料理とはだいぶ異なった発展をしてきているように思われます。
元々スタートが、湖南の庶民のための料理ではなく、国民党の美食家のための厨房に入っていること。その後、アメリカの軍人や、中華民国の総統のための料理長としてさまざまな料理を考案していること。さらにアメリカに行ってレストランを経営している。これらの経験を経て、彭長貴の料理は伝統的な湖南料理とは一線を画すものに変わっていったのでしょう。
そして30年前の台湾では、彭長貴の料理が湘菜の最高峰とみなされ、多くのレストランが彼のスタイルで料理を提供することになった。それが、台湾の湖南料理が中国大陸のものと大きく変わってしまっていた理由なのだと考えています。

彭園湘菜館の料理

左宗棠雞
上に述べたアメリカの艦隊司令官に供した料理が、アメリカで非常に人気を博したそうです。

左宗棠雞

生菜蝦鬆

これはレタスにエビを軽く炒めたものを載せる形でよく見ます。とてもあっさりした、食べやすい料理です。

生菜蝦鬆

富貴烤雙方
これはハムを使ったオリジナル料理です。味付けをしたハムを薄いパンの皮で挟んで食べます。なんとなくアメリカ人にウケそうな感じがしますね。

富貴烤雙方

これらの料理を見ても、大陸の湖南料理の激辛メニューとは大きく異なっていることがわかると思います。

現在の台湾の湖南料理

ずっと30年前の湖南料理のことを書いてきましたが、現在台湾で食べる湖南料理は、中国大陸のものに近く、先祖帰りしています。台湾風に辛さは抑えられていますが、以前食べたようなあっさりした料理ではなくなっています。しかし、僕はこの味にも慣れていて美味しくいただいています。

そして、上記の彭園も現在です。台湾に現在でも10店舗を構えています。最近は本場の辛い湖南料理ばかり食べていましたが、また今度、台湾で発展した湖南料理も食べてみましょう。それは、中華民国の歴史に大きく影響され、一人の料理人が発展させたオリジナルな湖南料理です。

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