仕事に囚われる

日記を少し書いたお陰で,今日は少し頭の中が整理されていた.何かの本で読んだことだけど「書くことは自分との対話」というのは本当だと思う.ヒトというのは,自分のことがわかっているようで,本当は全然わかっていないと思う.だから,僕が頭の中でイメージしている自分と,他人が思っている自分には相当な差があると思う.さらに初対面のイメージはなかなか覆ることがないから,その人のことを誤解し続けてしまうことはよくあることだと思うし,全然珍しいことではない.

少なくとも自分がどんなヒトであるかということをできる限り正確に把握するためには,自分との対話が必要だし,そのための手段として日記を書いたり瞑想したりすることは大切だと思う.自分も年を取ったのか,20台のころよりも少しは謙虚というか慎重になったと感じる.「物事に絶対はない」とか「正しいとか間違っているという見方は,その状況によって変わりうる」というようなことが,少しは実生活で応用できるようになってきた.さらにいうと,人間は科学というある種の言葉を通じて世界や自然を理解してきたけど,いまだに科学では説明できないことが多い.僕はそれが,氷山の一角なのではないか?と考えてしまう.それは,僕がある意味で製薬会社で研究とか開発の最前線に近いところにいることと少し関係しているのかもしれないし,いろんな著名人が「something great」や「深淵の底を覗く」といった言葉で何か得体のしれない大いなる力の存在について言及しているからかもしれない.元ヤンキースの松井選手も「野球の神様がいるということを仮定しないと説明できない」ということを言っていた.

僕が思うに,科学の弱点は定性的なモノの評価が困難であるということだと思う.人間や動物が感じる「心地よい」という感覚は擬似的に1点とか5点とかつけられるけど,ある人の1点と別の人の1点が同じであることは保証されない.一方,物体の重さとか水の体積なんかは同じ測りを使えば必ず同じ値になるから,2つのものの間を数学的に評価することは簡単だ.

これも非科学的は話だけど,その「何か(something great)」と同調する唯一の方法は,他者への貢献だとしか思えない.稲盛氏は重要な決定をする時に,その決定が「自己を満たす(金銭欲や名誉欲など)ものではなく,広く他者に貢献するものでなければならない」と考え行動したようだ.群集心理としても,何か良いことをしている人たちを応援したいというのはヒトの本能だと思うし,その無意識の本能は人が社会的な生き物であることを考えると,抗うことは簡単ではないと想像する.そうすると,やっぱり「誰かのため」になる行動のみが,「何か」と同調する唯一の方法なんだろう.

仕事は人間の営みの中でもっとも時間も労力も費やすものだから,「何か」と同調するようなものであって欲しいと思う.ただ,あまり重く考えすぎると,仕事が人生の中心になってしまうし,仕事に人生を奪われてしまう.僕はあまりパラレルにいろんなことをするのが苦手なので,仕事ばかりに時間を取ってしまっているけど,本当は仕事,子育て,自分のライフワーク(趣味とか),自分健康のバランスをうまく取っていきたい.それそれが完全に独立している訳ではないから,「いま」はほんの少しでも交わる部分に手を出し続けて行くことがよい方法だろう.

今の僕にあって10年後にないものは「時間」だろう.1日単位でみたら,時間なんて本当に限られているけど,10年後に0からスタートするよりも毎日1mmでも進める方が圧倒的に有利だから,時間を味方につけて,少しでも毎日続けよう(そして幸いにも僕自身の強みに"細く長く続けることが得意"という資質がある..).

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