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私は三人の師をもっています。

一人は森田茂之。大学時代の直属のゼミの師匠です。いわゆる現場上がりの大学教員で、文学教育の研究者でした。私が現在、国語教育において研究対象としている「問題意識喚起の文学教育」「状況認識の文学教育」「十人十色の文学教育」(荒木繁・大河原忠蔵・太田正夫)という1950年代以降の日本文学協会の実践群は、師匠森田茂之から引き継いでいる研究です。現在、盛んに発信している道徳授業研究もこの延長線上にあります。

森田は中学校の部活動のような感覚で、水曜日と木曜日に自主ゼミを開講していました。水曜日は国語科教育ゼミ、木曜日は現代文学ゼミ。単位も出ない勉強会なのに、1年生から4年生まで常時二十名以上が参加していました。両ゼミともに、講義の終わった夕方4時半からゼミが始まり、その日のテーマに一応の結論が出るまで終わらない、そういう運営を習わしとしていました。研究同人誌を年に何冊も発行し、教育実習でもないのに現場に行って授業をさせてもらうなんてことも頻繁に行われていました。

私がいまだに文章を書くことに抵抗を抱くことなく、しかも筆が早いのは間違いなくこの時期に徹底して森田によって鍛えられたおかげです。

私はいまだに、大学4年生の秋から冬にかけて、卒論を書きながら現場に行って授業するための指導案を練り、研究同人誌の執筆をしながら毎回のレジュメを作成した、あのすべてが同時進行の時期よりも多忙観を抱いたことがありません。学生時代にそういう経験をすることが現場に出てからどれだけ糧となるか、森田は熟知している大学教員でした。

現場に出てからも10年間、共同研究を続けました。国語科教育ゼミの中心メンバーが月に一度集まって例会を開くのです。それが「実践研究水輪」という研究グループです。「水曜ゼミの輪」という意味です。例会のあとにはイカの一夜干しでビールを煽る習わしでした。

残念ながら、森田は2001年に急逝し、「実践研究水輪」の活動も休止状態が続いていますが、私の教師としての基礎力は、間違いなく師匠森田茂之の指導の賜です。私にはどこか、自分が森田のつくった作品であるというような意識があります。

もう一人は鹿内信善先生です。鹿内先生は教育心理学者です。やはり学生時代に学びました。鹿内先生は夏と冬に研究合宿を開催していました。私は心理学の研究室に所属していませんでしたが、無理を言ってお願いし、常に参加させてもらっていました。

森田茂之からいわゆる国語教育を学ぶと同時に、鹿内先生から認知心理学を学ぶ。双方を同時に学んでいますと、中には矛盾する事柄がたくさん出て来ます。そのうちに私は自然に、共通点と相違点を整理するという思考を身につけました。この同時進行で異なる理論を学ぶという経験が、私の思考力を鍛えてくれたと実感しています。

三人目は野口芳宏先生です。野口先生とは私が現場に出て数年が経ってからのお付き合いですが、私に自分が考えていることの「機能度を上げる」ということを教えていただいたと感じています。野口先生との出会いについては、方々で詳しく書いているのでここでは割愛します。

さて、大学時代に習ったことが現場では役に立たないという主張をよく耳にします。そういうビジネスライクでプラグマティックな発想が大学教育を取り巻き、教員養成系の大学がほとんど専門学校化している現実も目にします。しかし、私は大学時代に学んだことが役に立たないと言っている人は大学時代に学ぶことを怠った人間だと思っていますし、教員養成系大学が専門学校化していくことを苦々しく感じています。

そもそも大学とは、学問を通して教養を身につける場であったはずです。教養とは生き方を考える基礎力であって仕事の仕方を考える基礎力ではありません。生き方を考えれば必然的に「世のため人のため」と自分が社会に貢献する方向へと向かっていきますが、仕事の仕方をいくら考えてもそこには労働力と対価との交換という市場原理が紛れ込んできます。そんなものを大学で学ぶことに何の価値があるのでしょうか。

生き方は他者理解を深め、他者に貢献することによる自己の喜びへと向かっていきますが、仕事の仕方はあくまで実利へと向かいやすい傾向があります。生き方を追究せずに実利を求めていては、師匠は得られません。実利はあくまで自分自身のベクトルで考えることですから、師をもつことも師となることも対価がある場合にのみ成り立つという発想を無意識的に抱いてしまうからです。この発想が教職とどれだけ離れた発想であるか、ちょっと考えればわかることです。

私は昨今の採用試験受験者不足も、教職の労働環境の問題というよりは、大学のプラグマティックな教育課程にこそその要因があると感じています。指向が実利に向かえばそりゃ労働環境や対価が気になります。しかし、昔だってそれほど労働環境が良かったわけでもないし、給料が良かったわけでもないのです。そのあたりに、私は昨今の議論に違和感を抱いています。

さて、話を最初に戻します。

師をもちましょう。師をもつことは、人間に自分を師の視点から常に点検し続けるという機能をもたらします。学生時代に師を得られなかったから遅いなどということはありません。師は大学でも職場でも研究会でもコミュニティサークルでも、どこでも得られるのです。

そしてできれば、複数の師をもちましょう。それも視点の異なった、研究領域の異なった、発想の異なった複数の師を。「それは師といえないのではないか」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。「一人の師から学んでこそ師弟である」と。学術研究の場に身を置くなら確かにそういう面があるかもしれません。しかし、私たちは教師なのです。深さも大切ですが、広さも大切なのです。

教育界において「私からのみ学びなさい」という関係は親分・子分の関係であって、教育界においては師弟関係とは言えません。一人の人間が到達できることなどたかが知れている、それを知らぬ人間にこの世界で人を導くことなどできないのですから。

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