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高いアンテナってどうしたら手に入る?

僕はアンテナの高さに割と自信がある。

もちろん我が家のアンテナが高いと自慢しているわけではない。あくまでも比喩だ。だいいち僕は自分の家のアンテナを見たことがない。だから我が家のアンテナを自慢することができない。人は知らないものを自慢できない。それはちょうど、自分の体力の自慢できても、自分の十二指腸がいかに活発に機能しているかを自慢できないのに似ている。

僕は小説をよく読む。学生時代にもよく読んでいたが、就職してからはあまり読まなくなり、四十代の後半に入ってまた再びよく読むようになった。年をとってきて教育書から学ぶべきことがあまりなくなったし、学術書を読むにはこらえ性がなくなってきた。それで再び小説を読むようになった。自分ではそんな感じで捉えている。なぜ小説に回帰したのかと問われても、それを明快に説明することはできない。それはちょうど、自分の躰のなかで十二指腸が確かに働いているはずなのに、自分自身でその働きを意識することができないのと似ている。

さて、二○一三年度のことである。僕のなかで大ヒットしたのは桐野夏生だった。昔からなんとなく気になる事件だった東電OL殺人事件で逮捕された外国人の再審請求が通り、どうやら冤罪だったらしいという機運が立ちこめてきた折、何か関連する本が読みたくなって探してみると、桐野夏生に『グロテスク』と題する東電OL殺人事件をモチーフとした長編小説があった。それを読んではまってしまったのである。二○一三年は僕が桐野夏生の文庫本をすべて読破した年だった。この年の僕にとっての一番の事件は、桐野夏生と出逢ったことと言って良い。それはちょうど、十二指腸が……いや、もうやめよう。ちなみに僕は小学校5年生のときに十二指腸という内臓の存在を知って以来、明かな十二指腸フェチである。もし僕が「好きな内臓は何?」と訊かれたら、迷わず「十二指腸です」と応えるだろう。しかし、残念ながら、人生四十八年、僕に好きな内臓を問うてきた人はいない。

前置きが長くなった。アンテナの話である。

桐野夏生を呼んでいると、例えば次のような表現に出逢う。

佐喜子の合理主義は生活者としては優秀だか、伴侶としては決定的に物足りなかった。

(「羊歯の庭」/『錆びる心』所収・文春文庫・46頁)

どうということのない叙述に思われるかもしれないが、僕にとっては学校教育を考えるうえでずいぶんと大きなヒントをもたらしてくれた一文になった。生活者として優秀なのに伴侶としては物足りないと感じさせる合理主義。こういう質のことが教師の魅力としてもあるのではないか。合理的にシステムを敷く教師は子どもたちから見て安心感を与える。そういう意味では優秀である。しかし、担任教師がそうした合理主義だけで学級を運営しようとしたとき、子どもたちは何とも言いようのない物足りなさを感じるのではないか。

また、桐野夏生を読んでいると、こんな描写に出逢うこともある。

「あなたとこんな風になるなんて思ってもいなかった」

石山の腕の中は、甘美な牢獄だと思いながらカスミはつぶやいた。時間が迫っているのに、いつまでも囚われていたい。

(『柔らかな頬』上巻・文春文庫・27頁) 

これは主人公のカスミの不倫の情事のシーンである。いわゆるピロートークの場面だ。 

こんな場面からも教育論は生まれる。ここで言う「甘美な牢獄」という言葉は僕にある種の震撼をもたらした。成功する学級経営とは実は「甘美な牢獄」をつくっているのではないか。学級とは牢獄である。子どもたちは学級を選べない。自由に教室から出て行くこともできない。その意味では間違いなく牢獄である。牢獄であることを意識しているからこそ、心ある教師はそこに甘美性をつくろうとする。若い教師はそこが牢獄であることを意識せずに、甘美性ばかりを追い求めるから牢獄に適した甘美性ではなく、甘美そのものをつくろうとしてしまう。その結果、時に学級崩壊が産まれる。牢獄に適した甘美と適さない甘美があるのではないか。こんな具合である。

「アンテナが高い」というと、一般的にいろいろな情報を集め、さまざまな情報に精通していることのように感じられる。でも、アンテナが高さとは、実は一見無関係に思われる事柄からも、自分の仕事に活きる情報を創造してしまえることを言うのである。さまざまなものを自らに触媒として機能させることのできる能力を「アンテナが高い」というのだ。それはちょうど、アンテナの高さと十二指腸フェチという全く関係ない二つを掛け合わせて一文を書いてしまうようなものだ。

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