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〈短編小説〉 木遣り歌が聞こえる


西さんのトビが水平に空を切り、カーンという音を立ててその怪物の肌色の切り口に食い込む。僕と林さんのガンタが、その切っ先をギリギリと奴の胴体にめり込ませる。

「ほら、ヒロ、押せ!」

と、西さんが叫ぶ。

彼の隆々とした腕が汗で光っている。

「せえーのっ・・・」 

僕と林さんはガンタの柄に肩を当てて、両脚を前後に開きながら、めいっぱいの力で踏ん張り、押し上げる。するとその怪物はとうとう観念し、ゴロリと転がりながら二本のチェーンレールの上に落ちてゆく。

「ガシーン」という奴の落下音は、僕たちにとっては戦勝のファンファーレなのだ。

直径が一メートル以上もある巨木の丸太を、今日もバーカーにかけて樹皮を剥き、大型鋸機の前に並べて行くのが僕の仕事だ。西さんと林さんは、「本機」と呼ばれるその大型鋸の操作係で、巨木のときだけ僕のエリアに入って来て手伝ってくれる。仕事場は機械油と松ヤニの匂いで満ちている。僕はこの匂いが好きだった。

沢別林業株式会社。

北海道東部の人口三千人の町、「沢別町」の郊外に、僕の職場がある。

プロのミュージシャンを目指す僕が、東京を出てこの町に移住して二年になる。移住のきっかけはアマチュアバンドコンテストで僕が二年連続して最優秀賞を取った時に、会場だった中野サンプラザの楽屋に、以前から尊敬していた音楽制作会社のプロデューサーが僕を訪ねてきた事だった。

「オリジナル曲はどれくらい持っているのかね?」

と、プロデューサーの小澤省三が尋ねた。

彼は前髪の白髪が印象的な、品のある五十代半ばの紳士だった。

「およそ六十曲です」

そう僕が応えると、小澤は少し難しい顔をした。そして静かな口調で僕にこう言ったのだ。

「君も知っているだろうが、今この世界でデビューするには、少なくとも自作の曲が二百以上はないと、アルバムは作れんのだよ。どうだい、君の作品には自然の持つ透明感が際立っていて素晴らしいものばかりだ。しばらく景色の美しい土地に移り住んで作曲に没頭してみてはどうかね。勿論、出来た曲のデモテープはいつ送ってもらっても構わない。私としても君を育ててみたいのだよ」

小澤は新進気鋭のプロデューサーで、彼が世に出したミュージシャン達のほとんどはいつもトップテン入りを果たし、この世界で彼の名を知らぬ者は居なかった。

僕は一も二もなく彼の意見を受け入れ、雑誌で移住者を求めている自治体を探した。そして見つけたのが、この北海道の沢別町だったのだ。

僕の受入れ窓口は沢別町役場企画課の高橋係長が担当し、引越しの際の荷下ろしから、住民票の手続き、その他様々な事でお世話になった。廃校になった小学校の元教職員住宅に入り、三日後には高橋係長の紹介で、沢別林業の新井社長の面接を受けた。社長は二つ返事で入社を了承してくれた。

日々の生活は充実していた。
東京での暮らしと違って刺激は少ないが、その分、豊かな緑の中で、凛とした空気を毎日呼吸しながら、昼間は製材工場の仕事、そして夜は作曲という、その簡素な毎日の生活が、東京で身につけた僕の精神の様々な垢を、知らぬ内に洗い流してくれていた。

作曲もはかどった。十曲ごとに僕はそれらをデモテープにして、東京の小澤プロデューサーに送っていた。彼はその都度、手紙で詳細なアドバイスを送ってくれた。二年間で百二十の作品が出来た。小澤氏はそろそろ僕のデビューアルバムの製作に向けて打合せをしようとも言ってくれていた。

工場の西さんは、西脇善吉といい、四十五歳の、小柄だが筋骨隆々たる男だった。二〇歳も年上の西さんと僕は何故か馬があった。彼は生まれも育ちもこの沢別町で、祖父の時代から林業に従事している家系だ。その歳になっても西さんは独身でいた。彼は焼酎が大好きだった。機械を操作する平日は絶対に酒を口にしない代わりに、仕事が休みの日は昼間から僕の家に酒瓶を持ってやって来る。

年の瀬が迫ったある日曜日、いつもの様に僕の家で飲んでいた時に、酔って赤い顔をした西さんに僕は訊いてみた。

「西さん、嫁さんをもらう気はないの?」

彼は一瞬うろたえた様な顔を見せたが、

「嫁さんを欲しくたって、この町じゃそんな女はいないもんよ」と応える。

僕はからかい半分で訊いてみた。

「社長の娘の頼子さんなんかいいんじゃない?」

会社の事務所で経理を担当している、新井社長の娘の頼子さんが、まだ三十代後半の独身で、彼女が時折工場内に入って来ると、ヘルメットの下の西さんの顔が、妙に赤くなっているのを僕は見逃さなかったからだ。

「ば、馬鹿な事言ってんじゃねえよ、ヒロ。おめえ、何を言い出すんだよ」

赤ら顔の西さんがますます耳の上まで赤くなり、ムキになって応えた。僕は笑いをこらえるのに精一杯だった。

「ヒロ、ところでお前、正月はどうするんだ?東京には帰るのか?」

夕方、帰り支度をしながら西さんが聞いてきた。

「いや、今年は帰らないでここで歳を越すよ。どうして?」

「じゃあよ。年明けの二日の朝十時に、消防署まで来いや」

「どうして?消防署で何かあるの?」

「いいから来いって」

「・・・わかった。行くよ」

西さんは手を振り、酔った足取りで帰っていった。

穏やかな年末年始だった。
一月二日の朝、僕は沢別神社で初詣をした後、歩いて消防署の前まで行ってみた。見るとそこには沢山の人々が集まっており、新井社長や、娘の頼子さん、本機担当の林さんの顔もある。役場の高橋係長もカメラを提げてそこに居た。僕は彼らと新年の挨拶を交わし、ここでこれから何があるのか林さんに聞いてみた。

「出初式だよ」

と林さんが教えてくれた。消防署員と町の有志で結成された消防団とが合同で、出初式を行なうのだという。

「西さんがここで木遣りを歌うんだ」

と林さんが言った。

「木遣り?」

「ああ、民謡の一種なんだが、西さんはこの町の木遣り保存会の会長なんだよ。彼の歌にあわせて消防団が出初をやるんだ」

その時「ドン!」と、大太鼓の音がひとつだけ響いた。消防の法被を来た男達が駆け足で勢ぞろいし、円陣を組む。長さが一〇メートル程もあろうか、竹の梯子が起こされ、円陣の中央で、それが天を突くように立ち上がった。やがて太鼓が早いリズムで連打され、一人の男がそれに合わせて梯子を昇り始めた。そしてあっという間に梯子の先端付近に達し、それと同時に太鼓が、ひとつ「ドン」と鳴って止んだ。

五秒間ほどの沈黙の後、円陣の中から一人の男の歌声が立ち上がった。

「エーヤランエーー、お諏訪様―ダヨーヤレエー、ヤートコセー、ヨイヤラナー・・・」

僕はその男の声を聞いてその場に釘付けになった。それは独特の節回しを持ち、美しくて力強く、青空に染み渡るような声だった。

「西さんだ」

と、僕の隣に立って見物している林さんが言った。

「え?ホントに西さん?」

「ああ」

小柄な西さんは円陣の男達の間に隠れていて姿が見えない。僕は耳を疑った。これが本当にあの酒好きでシャイな西さんの声なのだろうか。

その木遣りの歌声は朗々と、新春の町の一角に響き渡り、それに合わせて梯子の上の男が、曲芸のような型を演じている。後半には同じく法被を着た木遣り保存会の人々が、西さんの歌に合の手をかけて唄った。荘厳な儀式に僕は心底感動した。出初式が終わっても僕はその場を動けない程だった。

「西さん、俺、感動しちゃったよ」

僕は歌を終えた彼に声をかけた。

「おう!そうか。ありがとよ、ヒロ」と、照れ笑いしながらも彼は応えた。

「西さん、民謡歌手になる気はないの?プロでも充分に通じる声だと思うけど・・・」

そう訊くと、彼はまた例の如く顔を赤くして応えた。

「そんなもの、お前、成りたくたってなれる訳がねえだろう。ましてや俺みたいなこんな不細工な男がよ!そんな事より、ヒロ、お前早くデビューしろ!自分の事だけ考えてりゃいいんだからよう」

そう言って彼は僕の頭を小突いた。


事件はその年の三月に起こった。
それは日本の芸能界を揺れ動かす事件に発展した。音楽プロデューサーの小澤省三が覚醒剤取締法違反の容疑で逮捕されたのだ。それに加えて彼は四億円を越える脱税でも起訴された。

僕の夢は潰えた。

もちろん他のレコード会社数社にも作品を送ってみたが、方向性が時流とは少し違う僕の作品群は、彼らの食指を動かす事はなかった。西さんは涙を流して悔しがってくれたが、当の僕は何故か清々としていた。

しかし不運はそれだけではなかった。その半年後、折からの不景気と売上げの低迷で、沢別林業は二度不渡りを出して倒産してしまったのだ。倒産が決まった夜、工場の一角でささやかな最後の酒宴が持たれた。新井社長が涙ながらに従業員に詫び、最後に西さんが木遣りを唄った。従業員全員が西さんの歌を聞き、そして涙した。

駅に見送りに来てくれた西さんと抱き合い、そして残念そうな顔で僕を見つめる、役場の高橋係長にも世話になった礼を述べ、握手をして僕は列車に乗り込んだ。遠ざかる沢別町のその時の青空を僕は心に焼き付けた。僕の二年間の生活が列車の窓の向こうに流れ去って行った。

それが今から二十五年前のことである。


僕はそれから一旦東京へ戻り、アメリカ西海岸の音楽院に留学した。自ら音楽を作る事も含め、この産業界でのマネージメント技術も学びたかったからだ。

卒業後、音楽院の講師だったジェフリー・デイビスという敏腕プロデューサーのアシスタントとして、僕はハリウッドにある音楽配信会社に就職した。彼のもと、十年間ロサンゼルスで仕事をした僕は、帰国して東京の自由が丘に音楽プロダクションを作った。

ジェフリーとのパイプもあり、アメリカと日本両国でプロデュースする曲は幸いにもほとんどが大ヒットを記録した。十数年、僕はこの業界をまっしぐらに走って来た。田邊奈緒美と言う舞台女優と結婚し、娘も今年で四歳になる。気がつくと、音楽プロデューサーとして僕は二十名以上の歌手たちを世に出す仕事をしていた。

三ヶ月ほど前、自宅に一通のカセットテープ入りの封書が届いた。どこかのアマチュア音楽家の物かと思ったがそれは違った。送り主は西脇頼子という女性で、住所は北海道山川郡沢別町とある・・・。

―――拝啓
突然このようにお便りする御無礼をお許しください。私は西脇頼子と申しますが、覚えていらっしゃいますか。貴方様が沢別町でお暮らしの頃、お仕事をされていた木材工場の社長、新井誠一の娘でございます。工場の倒産の翌年、私は西脇善吉と結婚いたしました。

善吉は貴方様が音楽プロデューサーとして有名になられ、ことのほか喜んでおりました。私もご活躍を拝見し、嬉しい限りでございます。貴方様との再会をいつも夢見ておりました主人ではありましたが、去年、勤務しておりました建築会社で、重機を運転中に事故で亡くなりました。先日主人の遺品を整理しておりましたら、木遣り歌を録音したテープが出て参りました。ご覧頂くと解りますようにラベルのところに主人の字で「ヒロへ」と書かれてあります。恐らくこのテープをいつか貴方様にお渡ししたかったのでございましょう。沢別の木遣り保存会も主人の死を機に解散してしまいました。ご迷惑かもしれませんが、是非お納めくださいませ。子供もいない私達夫婦でございましたが、善吉との日々は幸せなものでありました。今は周りの人々にお世話になりながら、独りで生活しております。貴方様の今後の益々のご活躍とご多幸をお祈り申し上げます。      敬具―――

僕はその古いテープをデッキに入れて再生してみた。

「エーヤランエーーお諏訪様ダヨー・・・」

 テープから聞こえて来たのは、紛れもない、あの西さんの流れるような美しく力強い歌声だった。僕の鼻の奥がつんと痛み出し、やがてそれが涙になった。自分でも不思議なほど、僕は無防備に泣いた。涙がとめどなく溢れた。二十五年もの間、僕はなぜ沢別を忘れていたのか。心の中で僕は何度も西さんに詫びた。

その後しばらくして、僕は一週間の休みを取り、家族と共に沢別町を訪ねた。僕の住んでいた家の跡を探してみたが、そこは既に取り壊されて更地になっていた。沢別林業の工場もすっかり廃墟と化し、あの頃唸りを上げていた製材の機械も一部だけ残っていたが、それらは真っ赤に錆付いており、工場のトタン屋根が風に煽られて音を立てているだけだった。二十五年の歳月を肌で感じた時、また僕の鼻の奥につんと痛みが走り、涙が出た。

妻の奈緒美がハンカチを渡してくれた。

僕にはしなければならない事があった。西さんのご夫人、頼子さんの住所を訪ね、西さんのお墓参りをしたい。僕は西さん夫婦にお土産を持って来ていたのだ。

2023年4月。僕とジェフリーがプロデュースする新しい男性ユニット、「KIYARI(きやり)」が、日米同時にデビューアルバムをリリースする。アルバムの最初の曲にはカセットテープからデジタル処理された西さんの歌声が冒頭を飾り、荘厳なメロディーとリズムがそれを追う。

僕と妻は沢別町役場を訪ねた。受付で自分の名刺を渡し、当時の高橋係長がまだ在職しているのであればお会いしたいのだがと告げると、受付の女性が驚いて内線電話を取った。

数秒後、満面の笑顔で階段を駆け下りてきたのは、町長になった高橋さんであった。

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