宝鐘マリン船長との妄想恋愛小説

僕は海が嫌いだ。途方もない広さと底の見えない深さ。光の届かない深海には、どんな不気味な生物が棲んでいるのだろう。もしかしたら、血に飢えた三つ目の怪物が手ぐすねをひいて待ち構えているのかもしれない。ひょっとしたら、人をあっという間に死に至らしめる凶悪なウイルスが塊となって沈んでいるのかもしれない。そんなことを考えるだけで額が汗ばみ、足がすくむ。泳げない僕にとって海は魔境そのものであり、そんな場所を船などという、木材と少々の鉄で構成された不確かな乗り物で漂うなんて、およそ正気の沙汰とは思えなかった。

ましてや自分が今身を置いているのは商船でも漁船でもなく、海賊船だというのだから救いようがない。デッキ上には頭に赤いバンダナを巻く筋骨隆々の男たちが何十人とうろつき、ざわざわとした喧騒が僕の鼓膜を震わす。灼熱の太陽の下の海面で、巨大なガレオン船が己の存在を誇示するようにその威容をさらしていた。

「新入り、もうすぐ朝礼の時間だ。アレを頼むぞ」

生ぬるい潮風がやけにべたつく。先輩のクルーに肩を叩かれた僕は、首筋にかいたじっとりとした汗を拭うと、努めて陽気に「アイアイサー」とだけ答えた。

船内へと続くドアを開け、小走りで短い階段を下りていく。丸窓から陽光がさんさんと照り入る廊下を進んで物置部屋に入った瞬間、僕はそのあまりの乱雑さに辟易した。使わなくなったゲーム機や読まなくなった漫画、飲みかけのペットボトルに空き缶に時計にハサミ。その他用途不明の小道具が詰まった段ボールなどが、鬱陶しいばかりに視界を埋めつくす。後先考えずに物を置く船員たちはきっと、この部屋で探しものをする人間のことなどこれっぽっちも考えてはいないだろう。

「君たちぃ~~~~」

スピーカーから、少し鼻にかかった特徴的な声が聞こえたと思うと、甲板がにわかに活気づくのがわかった。もうそんな時間か、急がないと大変なことになる。僕はひとり焦燥に駆られながら、休まず手を動かし続けた。アレでもない、コレでもないと、押し寄せるゴミのうねりをラッセル車のように突き進んでいく。おびただしいほどのガラクタを蹴散らした先、埃まみれのスチールラックの奥底でようやく見つけたソレを、僕は両手でわしづかみにした。

表に出るとそこには、海賊服を着た美しい赤髪の女性が立っていた。黒いキャプテンハットの下からツインテールを肩に垂らし、着崩したジャケットの、袖が長すぎる両腕をわけもなく上下に振っている。すらりとしたというよりかは肉感的な脚部が瑞々しく、全身からは、心の最も敏感な部分を直接刺激してくるかのような得も言われぬ色香を発散させていた。

彼女の名は宝鐘マリン。この海賊船の船長だ。船長の号令によりデッキにはほぼすべての船員が集結し、人また人の活況を呈している。船長は一堂に会した部下たちを見渡すと、甘い蜜の舌で言った。

「それじゃ行きますよぉ~」

船員たちの顔に一瞬緊張の色が走り、態勢がぐっと前のめりになる。いよいよこいつの出番だ。僕は急いで船長のそばに駆け寄ると、物置から持ってきたCDラジカセのスイッチを入れてその足元に置いた。勢いのあるドラム音が鳴るとともに、大音量の音楽が船上にあふれ出す。

「♪海賊ならYo-Ho! 踊れ叫べYo-Ho!」

船長の透き通った歌声に、みんなが合いの手を入れる。なんとか間に合ったようだ。僕はほっと胸を撫で下ろすと、「宝鐘の一味」と呼ばれるクルーの人だかりに紛れ込んでいった。

船上はさながらライブ会場のように盛り上がり、むせかえるほどの熱気を帯びていた。その気迫に圧倒されながらも、僕も頭の中を空っぽにして他の一味同様に手を振る。そしてなぜ自分がここにいるのかをもう一度思い出した。


始まりは酒場の噂話だった。安酒をあおり酔いつぶれている僕のすぐそばで、バーテンダーと客が喋っているのを小耳にはさんだ。なんでも今巷で幅を利かしている海賊団の女船長が相当なやり手らしく、莫大な財宝を抱えているというまことしやかな噂。バーテンダー曰く、それが紙幣なのか金貨なのか定かではないが、当の女船長本人が嬉しそうに自慢していたのだから間違いないという話だった。

夢も金も目的もなくくすぶっていた僕は、一も二もなくこの話に飛びついた。一攫千金、濡れ手で粟。そんな言葉が胸中を横切り、気がつけば女船長とやらの持つ金銀財宝を盗み出すもくろみに向けて体と頭が動き出していた。そのお宝さえ手に入れば、僕は人生をやり直すことができる。宝鐘海賊団がどんなに恐ろしい連中だろうと、そこにどんな危険が待ち受けていようとも、そう考えることによって僕は自分自身の勇気を鼓舞することができた。


「♪あはんあは~ん!」

『もっと! もっと!』

「♪うふんうふ~ん!」

『もっと! もっと!』


一味たちの怒号のような掛け声が、僕を乱暴に現実へと引き戻した。曲も佳境に差し掛かり、その勢いが増していく。聴けば聴くほどにすさまじい歌詞だった。

そんなこんなで僕が宝鐘海賊団にもぐりこんでひと月が過ぎようとしている。しかし、未だにその財宝がどこにあるのか突き止められていない。あまりの手応えのなさに、焦燥はつのるばかりで、そろそろなんらかの成果が欲しいところだ。忌避すべき海の上で、屈強な男たちにもみくちゃにされながら不思議な歌を聴いていると、ふと、自分は今何をしているのかわからなくなる。

暑さで頭がボーっとしてきた。前後左右でひしめきあう男たちの狂騒は天井知らずで、僕の瘦せっぽっちな体を容赦なく飲みこんでいく。

冗談じゃない。遠ざかる意識の中、僕は負けじと自分自身を奮い立たせた。今夜中にでも宝のありかを突き止めて、船が港に着き次第こんなところ脱走してやる。そう思って歯を食いしばり、空に向かって拳を突き上げた。未来をこの手に、つかむのだ。


「♪ミラクル船長キャノン、撃てー!!!!」

『ブヒィィィィィ~~~~~』



その為には、船長を観察して隙をうかがう必要があった。

船長は一味とのコミュニケーションを欠かさない。あるときはウブな一味をつかまえてその豊満なバストを見せびらかすように挑発した。標的となった無垢な一味は、目をあちこちに泳がすのが精いっぱいで、逆に見慣れた一味からは「きつい」という野次が飛ぶ。そして小競り合いが始まるのが常であったが、これがこの船における正しい交流なのだと理解するまでにそう時間はかからなかった。

とはいえ、これだけの大人数をまとめているところを見ると人望はかなりあると考えていいだろう。取り分が減るのが嫌で単独行動をしているけれど、これではなおさら他の一味と取引をしたり買収したりというのは難しそうだ。

怪しい行動を取れば一味に勘繰られてしまう。すぐにでも宝の隠し場所を見つけ出して船を後にするつもりが、それを恐れてこんなにも時間がかかってしまった。しかしそれでも僕の地道な捜索が実を結び、船内はあらかた探し終わったというところまできている。

残すは、ある人物のプライベートルームのみ。僕は物陰から、一味と戯れる船長の横顔に挑むような視線を向けた。



濃い闇がたちこめる頃、船長室へと伸びる一本道の廊下には陽光のかわりに小さなランプが天井から咲いていた。扉の前に見張りはいない。この時間になると一味の連中は、少し離れた大部屋でゲーム大会に興じることを僕は知っていた。

船長の部屋に入る為の具体的なプランは特に用意していなかった。だが、要は宝をどこに隠してあるのかが知れればいい。何か適当な理由でもつけて中に入れてもらおう。いわゆる出たとこ勝負というやつで、宝鐘海賊団のゆるい雰囲気がそんな楽観的な思考に拍車をかけた。そしてそれ以上に功を焦ったのだろう。変化に乏しい自らの人生に、僕は痺れを切らしてしまったのだ。

ただし、わずかでも船長に怪しむような気配を感じたなら、そのときは速やかに撤退しよう――――そんな慎重なのか臆病なのかわからないことを考えながら、僕は船長室のドアを軽くノックした。

「船長、夜分遅くにお邪魔します。入室してもよろしいでしょうか」

返事がない。聞こえなかったのかともう一回ノックするが、なしのつぶてだった。

「船長?」

何気なくドアノブを回してみると鍵がかかっておらず、ギィ、という音とともにドアがゆっくりと開いた。僕は戸惑いながらも、おっかなびっくり中を覗きこんだ。

金の金具と赤くゴージャスな座面が貼られた椅子に、船長は座ったまま眠りこんでいた。片手にはドクロの形を模したカップが握りしめてられている。足元に転がったワインボトルとほのかに染まった赤ら顔を見るに、どうやら船長は酔いつぶれているようだった。

なんて不用心なと思う反面、好都合には違いなかった。僕は室内にその身をすべりこませ、音を立てないようゆっくりとドアを閉めた。

あたりを探るように見回す。酒ダル、読みかけの本、船の模型、丸テーブルに置かれたピッチャー。だが一番目を引いたのは、壁面いっぱいに飾られている、船長の姿を描いた絵画だった。

そういえば船長にはイラストの才能があり、実は元絵描きなのではないかという話が出るくらいである。なので、てっきり自画像かと思ったがそれぞれタッチが異なることに気がついた。海賊服だけでなく水着だったり、猫だったり、シスターの恰好を描いたそれは、一味からプレゼントされたファンアートらしかった。

絵の中の船長は笑っていた。晴れやかに、時には淫靡に。よくここまで描いた、そして描かれたものだと思いつつ壁の中央に貼られたプレートを見たとき、僕の思考は凍りついた。

背筋を寒気が走り、こめかみからあごにかけて汗が一滴おちる。僕はしばらくの間、呆然としてその場を動くことができずにいた。

そんなわけがないと首を振り、僕は不安から逃れるように部屋を探し回った。クローゼットの中を漁り、タンスの引き出しを開け、ドレッサーの下を嗅ぎまわった。しかし悲しいかな、さほど広くない部屋なのであっという間に捜索は終わり、僕は否が応でも現実と向き合わなければならなかった。

僕はふらふらと立ち上がると、先ほど見たプレートのほうに向かい、すがるようにそれを指で触れた。

『マリンのお宝』

その文字を声に出して読んだ瞬間、風船がしぼむように全身が脱力し、僕は膝から崩れ落ちた。これだけ船内を探して見つからず、噂が真実であればもうこれしかない。これこそが宝鐘海賊団における〝莫大な財宝〟なのだ。彼女が嬉しさのあまり酒場などで吹聴し、噂話に尾ひれがついたのかもしれない。

うらめしいほどに、船長はのんきに寝入っていた。だが、その純真無垢な寝顔は素直に可愛いと思う。整った顔立ちに、玉のように美しい肌。その屈託のない性格や耳をくすぐるような甘い声は、きっとこれまでに数えきれないほどの人を幸せにしてきたのだろう。

僕も男だ。食指が動かないといえばうそになるし、こんな女性と付き合えたら最高だ。それこそ、これまでのパッとしない人生のすべてがチャラになるくらいに。

しかし自分には不釣り合いなことなど、痛いほどわかっていた。これだけの美貌だ、どうせ最後には他人のものになる。そんな卑屈な気持ちから僕は彼女を遠ざけた。手に入らないのなら最初から諦めてしまえばいい。希望が大きいほど、失ったときの反動もまた大きいのだから。

次の港に着いたら、船を降りよう――――もうここに残る理由もない。そう思って部屋を後にしようとした時、船長が小さな肩をピクンと揺らすのが視界の端に映った。同時に僕の動きは止まる。しかし、息を殺したところでもう遅かった。船長は背もたれに預けていた頭を重たげに持ち上げると、眠そうに目をぱちぱちさせて言った。

「……え、何ですか。ここ船長の部屋ですけど」

船長の険のある声に頭が真っ白になる。能天気なのは、言い訳のひとつも考えていなかった自分のほうだった。

船長が立ち上がる。黄色と琥珀色のオッド・アイが訝しげにこちらを見つめ、逃げ場のない僕は曖昧な微笑を浮かべた。

僕を一味と認識するとさらにその眼光は鋭くなり、舐めるように下から覗きこまれた。弓状に反った背中は妙に色っぽく、猫のようなしなやかさがある。今度は僕が観察される番だった。

声も出せぬまま船長と対峙する時間が続いた。彼女が大声を出せば数多の一味が大挙押し寄せてくるだろう。もしかしたら僕は、財宝を手に入れるどころか船を降りることすら叶わないかもしれない。

そんなことを考えていた、その時だった。波に捕らわれたのか船全体がぐらりと揺れて、僕たちは大きくバランスを崩した。驚いたのもつかの間、意図せず船長を押し倒す。彼女が持っていたドクロ型のカップが床に落ちる音が響き、気がつけば僕は船長に馬乗りになる形となっていた。

「騒ぐなよ」

とっさに出た言葉とは裏腹に、僕の心はパニックに陥っていた。反射的に、首を後ろに回して閉じられたドアのほうを見る。実際のところ、いつ一味が入ってくるか気が気じゃなかった。船長の部屋に無断で入った挙句、こんなシーンを見られた日には僕はどうなってしまうのだろう。

一方で、船長は今どんな顔をしているのかが気にかかった。こんな下っ端に屈辱的な格好をさせられて怒りに身を震わしているのか、それとも恐怖に怯えた泣き顔か。おそるおそる首を戻してみたときに待ち受けていたのは、そのどちらでもない予想外のものだった。

船長は、赤面していた。形良い耳は紅潮し、口元に手をあて、憂いを含んだ瞳が僕のシルエットを映し出していた。

思いがけない表情に僕はさらに混乱した。お互いがお互いの現状を把握できないまま相対し、あたりを床がきしむ音だけが支配している。白く細い首筋と、その上に続く端正な顔から目を離すことができなかった。

噂話に踊らされ、逃げの算段すらままならなかった男の目の前に、信じられない光景が広がっている。もしかしたら僕は手に入らないものを手に入ると思い込み、手に入るものを手に入らないと決めつけていたのではないか?

今ここでキスをしたらどうなるのだろう。そんなよこしまな考えに火がつき、脳が痺れるような感覚が僕を酔わせた。ひょっとして……ひょっとしたら、船長は積極的で少し強引な男がタイプなのではないか。

「マリン……」

船長の名をつぶやき、ゆっくりと顔を近づける。柔らかそうな唇との距離が縮まるにつれ僕の心臓の鼓動は激しく、大きくなった。しかしどういうことか、いっこうに彼女は目をつむらない。こういうときは目を閉じるのがマナーではなかったか。

「マリ……」

もう一度彼女の名を呼ぼうとしたときだった。船長は目を閉じるどころか、かっと大きく見開き、そして、激昂した。

「マリン……? マリン船長だるぉ!?」

その瞬間、船長の右足が僕の股間を強打し、返す刀でわき腹を蹴り上げられた。僕が悲鳴とも呻きともつかない声を漏らして硬直すると、船長は自由になった両足をそろえ、寝ながらの態勢のままドロップキックのようなものを放つ。胸を撃ち抜かれた僕ははるか後方へと吹き飛ばされると、壁際に置かれた丸テーブルに背中からぶつかった。その拍子に乗っていたピッチャーが倒れ、中に入った水が勢いよく僕の頭を濡らしていった。

この時僕はある教訓を心に深く刻みつけた。この世にうまい話はない、と。

「ぷはははははは!」

それを見た船長が、可笑しそうに笑っている。僕は脳天から流れこんでくる水が服と体を濡らしていくのを感じながら、ただただそれを眺めていた。

――――なんて素敵に笑う女性なんだろう。一味の連中が、あんなにも強く彼女に惹かれる理由がわかった気がする。この人にはいつまでも笑っていてほしい、そう思わせるような温かな笑顔だった。そんな風に笑える船長が、僕は少し羨ましかった。

ふと、彼女が歩んだここまでの道程を知りたくなった。船長は自分が海賊として成功することを知っていたのだろうか。僕は直感的に、「違う」と思った。

あの笑顔は、どこまでも楽しんでいける自分の道を歩いている者の笑顔だ。成功するからやるとか、失敗するからやらない、じゃない。ただ自分の望む方向に人生の舵を切る。そんなシンプルで難しい決断をする為の勇気とバイタリティを、彼女は備えていたのだ。

あるいは僕もかつては持っていたのかもしれない。しかし押し寄せる日々の流れの中でいつしか、抱えることができなくなった。そう考えると、彼女の成功した理由があの笑顔に詰まっているような気がした。

船長の笑顔は、ノスタルジーだ。僕らがとうの昔に失くしてしまった、淡く揺るぎない感傷と冒険心だ。あの笑顔は人をいつか見た夢へと誘い、自由にする。だから多くの人を惹きつけるのだろう。その証拠に、僕はこんなにも彼女に心を奪われている。


結局僕は不法侵入罪により、一か月のトイレ掃除を命じられるだけで済むこととなる。あの後すべてを正直に話したことが減刑につながり、僕は一味による袋叩きの憂き目をまぬがれた。

トイレの便座を磨きながら、もう少しこの船に残ってみようと思った。あれこれ小賢しく考えたり目先の欲望にとらわれず、自分と向き合うには最適な場所かもしれない。

手始めに船長をモノにするという目標はどうだろう。だいそれた夢だと誰かが言ってもかまうことはない。奪われたら取り戻せ。それが宝鐘海賊団なのだから。

海への恐怖心はうそのように薄らいでいた。何かを恐れる気持ちを消し去ることはできなくても、それを上回る希望で包みこむことによって人は前に進めるのだと僕は知った。


船長と他愛ないお喋りをするのもいいだろう。ゲームや歌を楽しむのもいいだろう。彼女を口説いて、相手にされず、こっぴどく振られるのもまた良しだ。やりたいことが見つかったなら船を降りてもいい。そしていつかふと懐かしくなって、ふらっと立ち寄ってもいいだろう。

この船は、何をするのも自由だ。

太陽の陽ざしが弾丸のように降りそそぎ、追い風が僕たちの頬を叩く。船長の「出航ー!」という声が、遮るもののない大海原に響き渡った。


おわり

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