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吊るされた娘の腹を刃が貫き血飛沫は迸る

運命を知りながら受容しなければならないときの心はかくも平静なものだろうかと思う。

それは例えば娘の場合。娘がこの食卓の一人挟んだ向こう側についたときから運命は決していた。突如として娘は宙に吊るされる。それはクレーンゲームが景品を持ちあげるごときさりげなさであった。娘の母親は何の疑問も差し挟むことなく目の前に並べられた皿から食べ物をつまみあげる。私は刹那の後に耳を劈くであろう娘の母親の悲鳴を予期しながらも平常を装うより他はなかった。刹那。娘の腹を日本刀が貫き空中から鮮血が迸る。耳を劈く娘の母親の悲鳴。すべてはわかっていたこと。わかっていながらも受け入れるしかなかった運命だ。

「彼」の場合もそうだ。あの狭い戸口から「彼」を出すことができれば悲劇が回避できると知りながら、同時に「彼」は過去の経験からくる呪縛により狭い戸口をくぐることができないことも知っている。私は自己に課せられた義務として「彼」に尋ね、「彼」は当然のごとく断る。それが悲劇の引き金になるにも関わらず、私は「彼」の拒絶を受け入れるより他はない。走り出した車輪は道なりに猛スピードで突き進んでいく。

悲劇を到来させないためのターニングポイントは確かに存在し私はそれを知っていた。しかしすべての悲劇が必然であるようにこれもまた必然だった。目の前で起こる凄惨な映像や悲痛な声を予期しながらもあらゆる事情がその回避を許さないのだ。

どんな手段を使ってでもこれから起こる惨劇を止めないことに非があるというのならば私は重責を免れ得ないだろう。私は単に将来に向かって敷かれたレールの通りにシナリオをなぞっていただけであり、本来レールの存在など誰も認識できないことから考えれば、私もまたその一人であったと言い逃れることはできる。しかし私は現に知っていた。ある一点に向かって敷かれたレールを認識しながら、それを別の点に向ける努力をしなかったことは責められるべきことなのかもしれない。

シナリオ通りにレールの上を走り続けるときの私の心は至極静かであった。私は私のタイミングで胸を痛め耳を塞ぐことができた。宙吊りになった娘のこれから我が身に降りかかる災厄について何も知らぬ表情の上に、私は迸る血潮の鮮明な赤を重ね合わせていた。そうして娘の母親の悲鳴とともに私は用意されたシナリオ通りに部屋を飛び出し、実行犯を待ち構え、捕り逃し、集まった仲間とともに今後の作戦について話し合う。未来を知る私とてシナリオに用意された登場人物の一人であり、私自身の感情とは関係なくレールの上をひた走る操り人形の一人であった。

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