ちゃんと生きたところで
あなたがいなくなってから何日が経ったのだろう。
あるいは何週間、何ヶ月。何年かもしれない。
それすらも計算できなくなってしまった。
あなたがいなくなってから生きることが雑になった。
かろうじて会社には行く。社会のためになら生きられた。
でも自分のために生きることがどうしようもなくむなしい。
コンビニ弁当とペットボトルが散乱する部屋。冷蔵庫の出し入れすら億劫だ。風呂はシャワーで済ませる。シーツがめくれても汚れてもお構いなし。夏物の服と冬物の服が、毛布とタオルケットが同居して、今が夏なのか冬なのかもわからない。
何を食べても味がしない。腹を満たし生をつなぐ行為がどうしようもなく罪なことに思える。何のために身体を綺麗にして、眠って、目を覚まして、欠伸をして、着替えて、歩いて、息を吸って、吐いて、思考して、言葉を紡いで、痛みも、苦しみも、驚きも、怒りも、悲しみも、ありとあらゆる感覚と感情のすべては、それを感じるために備わった器官は、一体何のためにあるのだろう。
あなたがいないこの世界は一体何のためにあるのだろう。
「そろそろちゃんと生きたら?」
とある人が言った。
「ちゃんと生きていれば、きっといいことあるよ」
と。
確かにそうかもしれない。決して悪い人生ではない。とびぬけて優れているわけでもなく、致命的に劣っているわけでもない。
誰にでも手に入れられる幸せを手に入れられる位置にいる。
でも。
いいことがあったところで、あなたは戻ってこない。
幸せになったところで、あなたは戻ってこない。
あなたがいないのにいいことがあったって仕方ない。
幸せになったって仕方ない。
だってあなたがいないんだから。
この世界にはもう何の意味もない。
私が生きていることにも。
死ぬまで生きる。ただそれだけ。
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