書評 レビュー「エチオピア」フェルディナント・フォン・シーラッハ『犯罪』原著は2009年出版 2024年6月8日

『犯罪』は2012年日本で本屋大賞「翻訳小説部門」の一位を受賞している。が、私は著者を今まで知らなかった。原著がドイツ語なので話題になりにくかったのかもしれない。

wikipediaによると著者はベルリンで刑事事件担当の弁護士として有名のようである。また短編集『犯罪』の初出版以降、国際的に最も評価されているドイツの小説家の一人になっている。

私は著者を山口尚著「人が人を罰するとはどういうことか」で知った。

山口氏はシーラッハの立場を、刑罰は意味がない、として紹介している。

「エチオピア」はそれを証明するための格好の短編になっている。抽象化して言えば、人は已むに已まれずに犯罪を犯すのであって、その犯罪に対して刑罰を与えることの正当性に疑問を投げかける内容になっている。あまりにも物語がうまく出来過ぎていて、臭さを少し感じるが。

犯罪に限らず、責任が問われるためには、自由意志が存在しなければならないが、脳科学からのアプローチを除いても、私たちが思っているほど自由意志は存在していない、と私は思っている。
私の言葉で言うと、「人にはそれぞれ事情がある」問題だ。人にはそれぞれ事情があって、知らず知らずのうちにその状況に落とし込まれ、已むに已まれず一つの選択肢しか取れなくなっている。
サイコバシーのような、人を操縦してやろうと考えている少数の場合を除けば、自ら好んで心無い言葉を吐いているのではなく、自ら好んで暴力に訴えるのでもなく、自ら好んで犯罪に手を染めるのでもない、と私は思う。

例えば学校で、例えば職場で、心無い言葉を吐いたり、暴力に訴えがちな人がいても、それはそれなりの事情があると思うのである。ほとんど選択肢がなかったのではないか、と思う。
そこから類推すれば、犯罪も事情は同じであろう。であるなら、刑罰の役割を再考する必要があると思う。

追記

犯罪被害者や家族の傷つけられた感情は回復されなければならないと思う。でなければ社会が持たない。被害感情の回復を目的とした同害報復は古代文明期からあった。そうしなければ共同体が維持できなかったのだろう。

脳科学では、自由意志は存在しない、という考えが主流になっている。人が選択できるのは、その行為をしない、という選択だけである。


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