楽しむための子供のスポーツ と 勝つための子供のスポーツ 2024年5月13日

スポーツには勝敗がある。勝敗があるから勝とうとする。そこに熱中できる動機がある。しかし自己肯定感の低い人は勝ちにこだわる。こだわるからムキになる。ムキになるから自分もつまらないし、周囲もつまらない。つまらないけど、上手だからスポーツを続ける少数者と、つまらないからスポーツから遠ざかる多数者を作る。

スポーツは楽しい一面がある。具体的には、
• 体を動かすことの楽しさ。それは空間認知能力を発達させる。
• 出来ないことが出来るようになることの楽しさ。それは挑戦してみよう、という肯定的な姿勢を育てる。
• 論理的に考えて動くと、成果がついてくる楽しさ。それは論理的思考の大切さを実感させる。
• 友達と一体感を得る楽しさ(団体スポーツ)。それは共同身体感覚の獲得、共感の獲得を助ける。

以上のスポーツの長所を考えれば、子供にスポーツを薦めるのは悪いことではないと思う。もちろん友達と冒険ごっこをしても同じような効果があるだろう。

以前公園のそばに住んでいたことがあるが、子供たちや親子連れがやってきて野球をよくしていた。ときどき見かけるのだが、異常に勝ち負けにこだわる子供がいる。お爺ちゃんと来た小学低学年ぐらいの男の子が、毎回自分が勝ったことを確認しないと次に進まない場面を見かけた。低自尊心そのままの表現なのだが、きっと親も自己評価が低いのだろう。子供をダシに使って自分の抑圧された気持ちを満足させているのである。ダシに使われた子供の自尊心はもちろん傷付けられる。

校庭などを通り過ぎるとき、少年野球の練習場面にときどき出くわすが、何を勘違いしているのか、子供に罵声を浴びせている頭の悪い指導者がいる。考える習慣が無いのだろう、昔ながらの上位下達の厳しい練習法である。勝つことに至上の価値を置くと人権無視も横行する。どんな手段を使ってでも勝て、という対戦相手への人権無視、上手な子供だけに目をかけるという、チーム内の子供達のトラウマ作っての人権無視。こういう人は子供と接する教育者として失格であるが、そもそも人間としても失格である。
厳しい練習法に乗じて、自分の鬱憤晴らしを兼ねている。と言うか、それを繰り返すことによって、むしろ鬱憤晴らしの手段として子供に野球を教えていることにもなりかねない。子供たちを思い通りに動かすことによる低い自尊心の一時的な解放、それに伴う快感情が習慣づいているのである。
こういう指導者を親がありがたがっていては子供は傷付く一方である。さっさと忌避して子供を守り、指導者を交代させその勘違いを修正させたほうが良い。

子供に何かを教えることは、教育者としての性格をどうしても持ってしまう。子供は無垢に近いからである。つまり自分で判断しづらい。教育者とは、具体的には、相手の今だけを考えて接するのではなく、将来も想像しながら接する心の準備をしている人だ。目の前の相手の10年後、20年後のことを想像して、今必要だと思うことを伝える。
目の前の中年男の10年後、20年後のことを想像して、今必要だと思うことを伝えるのは親切だが、相手が子供ならそれは親切ではなく、努力義務であると思う。


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